巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

ningaikyou35

人外境(にんがいきょう)(明文館書店 発行より)(転載禁止)

アドルフ・ペロー 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

since 2020.5.16

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       第三十五回 ナイルを1000マイル遡った地

 実に芽蘭(ゲラン)夫人等一同が穴の中で死なずに済んだことは、奇跡中の奇跡とも称すべき天運なので、平洲と茂林は更にその経過を問うたり、答えたりしながらも、互いに運の強いのを祝しつつ、芽蘭夫人の所に行くと、夫人は既に走って来ていた寺森医師から茂林の無事を聞き、大いに心配を寛(ゆる)めていたとは云え、まだ心を落ち着かせることが出来ずに居た時だったので、青冷めた顔色で此方(こちら)ばかりを眺めて居たが、茂林を見るやいなや、両の手を伸ばして握らせて、

 「本当に吾々は、良く逃れましたよ。」
と云った。
 「実際私は全く貴女方がこの世の人では無いだろうと思い、アノ穴へ飛込んで、黄泉(あのよ)へ追い掛ける積りでした。」
 平洲も傍から言葉を合わせ、

 「全くです。私が呼び掛けた時、茂林は穴へ身を投げようとして居ました。もし私の声が一分間遅かったなら、彼こそ今頃冥途の人です。」
 夫人は話を聞いて、一同がそれほどまで危い間際に遭遇して居たのかと思って、又今更の様に、

 「徒(いたずら)に命を危うくしては成らない身の上です。」
と云う。その言葉には、夫人が自分の心の過ちから、又と得る事が出来ない二人の勇士が失なわれようとした事を悔いる気持ちが、充分に明らかだったので、二人は却(かえ)って嬉しさが胸に充ち、我知らず双方から夫人の左右の手を取って、その甲に接吻した。

 この様な情に脆(もろ)い行動は、夫人が兼ねて厳禁していた所ではあるが,この時ばかりは、夫人自らさえも二人の手を振り払う勇気が無かった。是から茂林は更に帆浦女の事を思い出し、又一方を振り向くと、鉄張りの様な彼女の身体も、多少の擦り傷を免れる事が出来なかったと見え、今や寺森医師に繃帯を受ける所であった。

 医師は先頃三人互いに此の女の心を、他に振り向けようと約束した其の言葉を堅く守り、
 「イヤ、もう茂林画学士が貴女の事ばかりに気を遣い、何うか帆浦女に怪我さえ無ければ、自分は死んでも構わないなどと云って居ました。茂林は陰ではもう貴女の事ばかり言って居ます。」
などと、喋々(べらべら)と茂林の効能を説き立てる所だったので、茂林は平洲と顔を見合わせて苦笑した。

 そうこうする間に雨は収まり、雲は散じて、変わり易いアフリカの天気は元の晴天に戻ったので、一同はここを引き上げ、日没の後に天幕(テント)の所まで帰り着いたが、一夜を明かした翌朝は、病に罹(かか)った馬なども、大方健康に返ったので、再び隊伍を正して此の所を出発した。

 今までは山と山との間であったが、「オバツク」の井(ウエル)と云う所を過ぎると、山も無く林も無く、唯だ漫々たる砂原で、その広さは有名なアフリカ内地の大砂漠に比べる事は出来ないが、兎に角、二十里(80km)の余りに広がり、取り分けその砂の細やかなることは、世界中で此の土地を以て第一とする程なので、少しの風にも吹き集められて、忽ち目の前に砂の山を築き、又吹き散らされて一面の平地と為るなど、変幻することが殆ど止むことは無かった。

 更に又此の辺の砂は非常に強い輝きがある。赤道上を運行する天日を反射して、或時は白一色の銀世界と為り、又或時は燦爛(さんらん)《きらびやかに輝く様子》として純金を敷き詰めた様子にも似ているので、馴れない旅人の目を害することが並大抵では無く、一同青色又は黒色の眼鏡を掛けて進む程だったので、旅行の困難は譬(たと)える物もないほどだったが、

 之よりも更に困難な事は砂の深さで、浅い所でも馬の足を一尺《30cm》以上も埋め、深い所は馬の腹が殆ど地に接する事すらあった。一歩を抜けば一歩は没し、進もうとすれば退き、一里(4km)を進むのに、平地の十里を行くほどの苦労があると云う。

 それで二十余里の沙漠ではあるが、渡り尽くすのに六日を費やし、一週間目に漸く、 「アボータガー」の井(ウエル)と云う所に達した。ここは一面ナイル大河の余沢(おこぼれ)を受ける草原で、沙漠からここに移れば、殆ど地獄から極楽に入る思いがする。

 一行は幾分の力を恢復する事が出来て、最早目指す漠々村(バーバーソン)も近いと云うことなので、知らず知らず馬の足を早めると、「アポータガー」の井(ウエル)から二里余にして、初めて遥かにナイル大河が帯の様な流れるのを望むことが出来た。

 先に一同が初めてナイルの河を見たのは、カイロ府であったが、それ以来日を経ること幾十日、危険な未開の地を跋渉(ばっしょう)《山を越え川を渡る事》すること幾千里、再びここにナイルの河を認めることは、異郷で初めて知己に逢った心地がした。

 「ナイル、ナイル」
と口々に呼び立てて馬の背に伸び上がり、殆ど道の遠いのも忘れた。地図から考えると、カイロ府から是に至るまで、若しナイルの河を遡(さかのぼ)れば、河流一千哩(マイル)《約1850km》に少し足りないくらいである。

 一同は紆余曲折して二度まで紅海を横に渡り、唯だ道の最も変化の多い所を選んで来た者なので、既にカイロから二千哩(マイル)《約2700km》以上を旅した者と知られる。



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