巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

ningaikyou44

人外境(にんがいきょう)(明文館書店 発行より)(転載禁止)

アドルフ・ペロー 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

アドルフ・ペローの「黒きビーナス」の訳です。

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         第四十四回 夫人の意外な申し出

 石に縛って淵の底に沈められようとする医師寺森の話は暫(しばら)く置き、扨(さ)ても茂林画学士は芽蘭(ゲラン)夫人が何と無く余所余所(よそよそ)しいのを見、全く夫人の心が平洲に傾いた事とばかり思い詰め、余りの忌まわしさに、此の上夫人から故々(わざわざ)我を迎えに寄越すまで、夫人の所へは行かないと決心し、一種の意固地(いこじ)になって居たところ、二日が三日経っても夫人から迎いを寄越す様子は無く、自分は全く夫人に忘れられたかと怪しまれる計かりだったので、果ては業を煮やし、且つは嫉妬の一念も火の様に燃え上がり、最早や意地をばかり張通すことは出来なくなった。

 最初パリを出る時、夫人は堅く約束し、たとえ途中で心が一方に傾く事があっても、決して素振りなどには現わさず、平等に二人を扱い、無事に旅行が終わった後に、パリへ帰って初めてその心がどちらに傾いたかを披露します。ですから途中は飽く迄も、自分の身は男子の積りで、最も男らしく、最も公明正大に身を保ちますと誓っていた。

 此の誓いに照らしても、夫人が旅行の半ばにも達して居ない、此の土地で手早くも平洲に心を傾け、吾を満更の他人の様に扱うのは、何よりの違約である。たとえ夫人の心が非常にせっぱ詰まり、旅行を終わるまで待つ事が出来なくなったとしても、其の次第を吾に打ち明け、実は平洲を後々の夫と定めたので、御身は此の上此の旅行を続けるのは無益です。是までと断念(あきら)めて本国へ帰られよと明らかに言い渡すのが当然である。

 平洲の方としても、我と彼との間には、何事でも打ち明け合うという堅い約束があったのに、彼れが自分の身の幸福に酔い、其の約束をすっかり忘れた様になっているのは、返す返すも残念である。アア吾れは何者だ。夫人の愛を競争者に奪われた事は仕方がないものの、今まで夫人の為には一命も惜しくないとまで思い詰め、危険を冒し、苦労を嘗め、火の中水の底をも潜(くぐ)る事を辞さなかったのに、この様に嫌い遠ざけられる謂(いわ)れは無い。

 唯だ偶然一緒になった道連れとしても、これ程までに心尽くしたなら、挨拶位は受けても良い筈である。最早やいたずらに先の迎いを待つべきでは無い。平洲にも夫人にも、問う丈の事は問詰め、我が決心の有る所をも告げよう。平洲と夫人とは、我を塵芥(ちりああくた)の様に見做し、我には何事も打ち明けるに及ばないと思って居るのだろうか。

 我も一人前の分別ある男子である。既に此の旅行の目的とする夫人の愛は、平洲に落ち、我には何の見込みも無いするならば、何が為に長く夫人に同行して、此の上の危険を冒すことが有るだろうか。夫人と平洲が、愛し愛せられて、仲良く旅行する其の傍に附き、二人を保護して旅行する事は、我が虫の許さない所である。

 そうだ、早速に夫人と平洲とに逢い、言う丈を言い、聞く丈を聞き、其の上で何の未練も無く本国へ立ち返り、一方には平洲と夫人を、邪魔者無しに旅行することが出来るようにし、又一方にはパリの雑踏する交際場裡に、身を投げ入れて、此の競争に打ち負けた我が失望を紛らそうと、この様に思い定めて宿を出たのは、日の暮れた後であった。

 道で通訳の亜利が、馬に乗って此方(こちら)に来るのを認めたので、茂林は呼び留めて、
 「コレ亜利、お前は夫人の使いと為り、俺を迎えに行く所では無いか。」
 亜「イイエ、余り退屈ですので、目的も無く馬に乗って出て来ました。」
 此の返事に我が問の愚かだったことに気付き、悔いつつ、
 「シタがお前は平洲を見受けなかったか。」

 亜「ハイ、タッた今、此の先で芽蘭夫人の住居の方へ」
 「アア問う丈無益だった。ドレ其の馬を俺に貸せ。」
と云い、非常に気短い茂林は、殆ど狂人の様に、亜利を馬から引き卸(おろ)して、其の馬に自ら乗り、一鞭当てて一散に夫人の住居を指して急ぐと、丁度門の中で平洲が玄関を指して進もうととする所へ追付いたので、茂林は馬から降り、腹立しさを隠す事が出来ずに、非常に冷淡な語調で、

 「オヤ君は夫人の許を尋ねるのだネ。」
 平洲も全く茂林と同じ思いで、夫人の愛は既に茂林に落ちたものとばかり信じ、同じ目的で来た者なので、自ずと角の有る言葉で、
 「そうサ、僕だって夫人の許を尋ねるよ。君こそ馬に乗って大急ぎで。」
 茂「フム馬に乗って急いで来たのが何うした。」
と嫉妬と嫉妬の突き合いで、将(まさ)に取り留め難い争いにも立ち到ろうとしたが、平洲は気早い中にも、茂林よりは幾分か落ち着いた所がある丈け、胸を鎮(しず)めて、

 「茂林君、君と僕との間に、議論すべき一事件が有る事は、君自ら知らないでも無いだろう。」
 茂「勿論さ。」
 平「所でその議論は夫人の前で仕ようか。それとも夫人の聞かない所で仕ようか。」
 茂「夫人の前ででも、或いは介添人の前ででも、唯だ君の望み次第だ。」
と言って早や決闘にも応じるだろうとの意を示すと、此の時馬の足音を聞いた為ででもあろうか、家の横手から庭を伝って出て来たのは芽蘭夫人で、夫人は二人を見るやいなや非常に懐かしそうに、

 「オオお二人とも良くお出で下さった。実は今夜若しお出でが無ければ、明朝はお二人へ迎いを出そうと思って居ました。」
と云う其の言葉は、非常に打ち解けた、今まで通りの芽蘭夫人なので、二人は拍子の抜けた心地で、互いに相手の心を読もうと其の顔を見合わす中にも、茂林は、

 「ハイ私は既に幾日の間も、貴女の許へ伺いませんけれど、平洲は。」
と言い掛けるのを夫人は受け継ぎ、
 「ハイ平洲さんにも貴方にも、容易にはお話の出来ない事柄が起こりましたので、先日来、私もお二人を迎えずに居ましたが、、、、」
と是まで言って二人の様子の異様なのを見、
 「オヤお二人とも唯ならないお顔付に見受けますが、何うか成さったのですか。」
と問出だしたが、流石に女性の悟りも早く、大概それと見て取ったか、
 「イヤ此処(ここ)では話も出来ません。先ア此方(こちら)へ。」
と云い、二人を自分の居間へと通して行き、一様に席を与えた。

 二人とも此の公平な仕向けで、扨(さ)ては夫人が、我をのみ嫌らって遠ざけていたのでは無かったかと、心には既に解け初めていたが、夫人が容易に話し難い事が出来たと云ったのは何の事だろうと、半ば其の事が気に掛かり、無言の儘(まま)で控えて居ると、夫人は深く心に掛かる事が有ると見え、重く大事を取る様子で、徐(おもむろ)に口を開き、

 「此の旅行に付きましては、是までお二人に一方なら無い助けを受けましたが、今と為っては誠に後悔に耐えません。此の土地限りでお二人の同行をお断わり申して、私は唯だ一人で蛮地へ分け入らなければ成らない事と為りました。」
 是は実に意外な申し出なので、

 「とは又何の為ですか。」
との問いは一様に両人の口から、矢の様に衝(つい)て出た。夫人は殆ど涙に潤むかと思われるほど悲しそうな目許で、
 「ご存じの通り、此の旅行は亡き夫の墓参りと云う目的で、貴方がたへも堅い約束を致しましたが、今は其の約束を守る事が出来ない身の上と為りました。此の上に貴方がたを危険の地へ臨ませる事は出来ません。」

 二人はまだ合点が行かず、殆ど呆れる有様で無言で居ると、夫人は語を継ぎ、
 「先日来、種々旅行家を問い糺(ただ)したところ、私しの夫芽蘭男爵は、死んだのでは無く、今もまだ人外境(にんがいきょう)と云われる程の恐ろしい野蛮の地に、虜(とりこ)と為って生きて居る事が分かりました。夫ある身で、何うして貴方がたとの約束を守られましょう。私の身の勤めは、ここからして唯一人で、夫の身を救う為め、人外境へ踏み込まなければ成らない事となりました。」



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