巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

ningaikyou57

人外境(にんがいきょう)(明文館書店 発行より)(転載禁止)

アドルフ・ペロー 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

アドルフ・ペローの「黒きビーナス」の訳です。

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         第五十七回 象の群れ

 象の群れは山の頽(くず)れる勢いで、此の広場へ崩れ込んだが、彼等はここを遊び場所とでも思っているのか、散り散りに隊を解き、或いは小川の傍に行き、清水を鼻に吸い上げて、ポンプの様に脊(せな)に吹き掛け、身を洗って快(こころよ)さそうに憩(いこ)うのも有り、或いは草の上に転がって身体を掻くものも有り。或いは草を食らい、或いは風を嚊(か)ぐなどして、打ち解けて戯れる様は、見掛けに寄らない優しい所がある。

 此方に一同が潜んで居ることには少しも気附かないようだ。素より彼等は此の邊一帯の森林に、獣の王として住まい、総て他の動物が我が姿を見て逃げ去る有様に慣れ、天災地変の外は世に恐ろしい物が有ることを知らないので、今己れ等の遊戯場に、逃げも去らずに隠れて居る図々しい二足動物が有ろうとは、夢にも心に浮かばないところであった。

 しかしながら此方(こちら)の一同は、象が夢中で戯れるのを見て、少しも安心する事は出来なかった。象の遊ぶ区域が次第次第に広がって、今十分と経たない間に必ずその中の二頭三頭が、此の邊まで歩るいて来るような様子が見られる。来て一同の姿を見れば、何の怨みも悪気も無しに、唯だ何れほど力がある動物なのだろうと怪しみ、試しの為めに踏み殺すことは、此の辺りの象の気質として必定である。

 一同は声さえも出す事が出来ずに小さくなって潜(ひそ)んでいたが、最早や潜んでいる甲斐が無い場合になったので、今こそ冥途(めいど)に行く時が来たと、人心も無く控えていると、茂林は象の耳に入らない様に、虫の音ほどの細い声で平洲に向かい、

 「此の象を追い払うより仕方が無い。」
と云う。平洲も同じく声を殺して、
 「何のようにしたら追い払うことが出来る。僕は先刻から象の数を算(かぞ)えて居るが、総てで七十三匹居るよ。そうして我々は人夫の原住民を合わせて、十一人しかここに居ない。その中二人は婦人だぜ。」

 茂林は象が立ち聞くことを恐れる様に、草の間から彼等の姿を見詰めたままで、
 「そうさ男が九人で九挺の銃が有る。婦人二人は短銃を持って居るから都合十一挺の銃を揃え、一時に空を狙って発砲して見よう。幾等猛獣でもその音には驚くだろう。」

 寺森医師は背後でこの相談を洩れ聞き、
 「それは猶更ら彼等の注意を呼ぶから危ない。」
と云い、頻(しき)りに平洲と茂林の上着の端を引き動かしたが、平洲は見向きもせずに考えて、

 「サア象を射てば、怒って此方を振り向いて来ることは必定だが、空を狙って音だけ聞かせれば、彼等は驚いて天変地異とでも思うだろう。何でも驚きさえすれば、第一に逃げる心を起こすのが、獣類一般の性質だから、或いは旨く行くかも知れない。」

 茂「彼等が怒るか驚くか、二つに一つだ。何うせ逃れられない場合だから、彼等が怒って我々を踏み殺せば元々さ。萬が一驚いて逃げれば我々の幸いさ。」
と言って相談はここに一決したので、蜜々(ひそひそ)一同へ命令を伝えると、外に何の手段も無かったので、皆此の言葉に従い、直ちに十一挺の銃口を揃え空に向けて、茂林の合図に応じ、一斉に打ち出すと、静まり返って木魂に響いて、その音は実に凄まじかった。

 群象も之には驚き、何事だろうと非常に怪しむ様子で、七十三頭皆広場の中央に集まったのは、逃げるべきか将(はた)また襲うべきかと、額を集めて相談しようとするものに違いない。この評議は実に一同の死生が岐(わか)れる所なので、一同宛(あたか)も死刑の宣告を待つ罪人が、裁判官の一挙一動に気を揉(も)む様に戦(おのの)いて、其の様子を眺めていると、その中の最も老いた一頭が、群れを離れて徐々(そろそろ)と元来た路を指して立ち去ると、他の象等もその例に従って、更に何事をか考える様子で、首を垂れたまま、緩々(ゆるゆる)と立ち去った。

 茂林の計略は先ず図に当たったけれど、まだ安心が出来ないのは群れの中で、最も逞しい牡象二頭が後に残り、何やら同類一同の立ち去ったことを言う甲斐無しと歎(なげ)くように、鼻を空中に揚げて風の匂いを嗅ぎ始めた。

 察するにこの二頭は曾(かつ)て銃の音を聞いた事が有るのに違いない。或いは又傷でも負わされ、兼ねて狩人に対し怨みを蓄わえ、復讐の折を待って居た物であるかも知れない。やがて二頭は人の気があるのを嗅ぎ知ったと見え、一方の高い老樹の許に行き、その梢を見上げると、上には先ほど逃げ登(のぼ)った黒人一人、逃れられない所と思ってか、聞くも憐れに泣き叫ぶのは、一同の救いを乞う者に違いない。

 二頭は延び上がっても、梢まで其の鼻が届かないので、やがて一頭は長い牙を地に埋めて、木の根を掘り返し始めると、又一頭はその鼻を幹に巻き、根を弛(ゆる)めようとするように、其の木を左右前後に揺(うごか)し始めた。如何ほどの力が有ろうとも、此の木を抜くことは出来ないだろうと思ったのは、唯一時の空頼みで、五分十分と立つうちに、樹は益々動き出し、木の根に挿した一頭の牙は、早や根こぎにするかと思われる迄に至った。



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