巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

ningaikyou59

人外境(にんがいきょう)(明文館書店 発行より)(転載禁止)

アドルフ・ペロー 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

アドルフ・ペローの「黒きビーナス」の訳です。

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       第五十九回 蟻に襲われた與助

 血尽き、魂尽きて象が自ずから死んだ為め、夫人、茂林、平洲の三人は意外にも助かったけれど、しばらくは三人とも喜びもせず、顔上げて互いに見合おうともせず、全く自分の身が余りに危うかった為め、魂を奪われて、喜ぶことをすら忘れてしまって居たのだ。

 逃げ去った寺森医師や、老兵名澤は象が倒れて三人が助かったのを見て、喜ぶこと限り無かった。
 「アア目出度い。」
と叫んでその隠れ場所から現れ、走って来て右左から三人を祝すると、三人は漸(ようや)く人心地(ひとごこち)に復(かえ)り、フト気付いて見ると、下僕與助だけがどこに行ったのか未だ姿を現さず、その他の逃げ去った者共は、兵士及び人夫の原住民に至るまで其処(そこ)の樹の陰、彼所(あそこ)の草叢(くさむら)から追々に現われて、皆集まったが、唯だ與助ばかりは何所にか行ってしまった。

 さては彼れ臆病で、遠く森林の奥までも逃げて行って、道に踏み迷よってしまったか。先にアラビアの沙漠で、彼一人は行方を失い、数ケ月を経て初めて一同と巡り合った事も有る。彼れは何かに付けて失策ばかりしがちな男だからと、一同は非常に心配して四方(あたり)を見廻すと、遠くも離れていない彼方の木陰で、

 「アア喰い殺される、助けて呉れ。助けて呉れ。」
と明白なフランス語で叫ぶ者があった。その声は與助に相違ないので、一同は喜ぶよりも又驚き、喰い殺されるとは意外な猛獣にでも出逢ったのだろうかと、周章(あわて)て其の方を見ると、樹の陰から現れ出た與助の様は、怪しとも不思議とも譬え様がなかった。

 彼れは踊りの稽古でもしているのか、両の手を張広げて上下に振り廻し、或いは伸ばし、或いは屈(かが)んだりと、異(あや)しい素振りをしている。時々水から出た犬の様に、強く自分の体を震るわし揺さぶりなどするが、別に水に濡れた様子も無い。

 張った手の一方を上に挙げ、又一方を下に垂れ、身を左右へ傾けて又忽ちに地より三尺《90cm》ほども飛び上がり、又強く地団太を踏む事も有り、その間も絶えず、
 「喰い殺される。喰い殺される。」
と叫び、此方へ逃げて来るかと思えば、来ることも出来ない様子で、同じ所に踊り狂うのみなので、一同は合点が行かなかった。

 彼れは或いは人の笑いを買おうとする為、故(わざ)と異様な振る舞いをして居るのではないかと疑って居ると、独り老兵名澤はしばらくその様を見て、忽(たちま)ち合点が行った様子で、
 「ヤ、ヤ、大変だ。早く助けて遣らなければと言い、原住民の人夫と共に一散にその傍へ走って行った。

 一同も不審のまま、其所(そこ)へ走って行って何事だと問うと、與助は充分に返事さえすることが出来なかったが、蟻の群れに襲われたと云っているようだった。後で仔細に様子を糺(ただ)すと、彼れは象が倒れたのを見て、ヤッと安心して此方へ来ようとすると、樹の陰に土の小高く盛り上がった所があったので、何の気も無く踏み越ようとして、彼の足が其の上を踏むや否や、土は忽ち落ち込んで與助の身体は腰の上まで其の中に没入した。

 是れは即ち此の辺りに多くある蟻の巣で、盛り上がった土の中は、殆ど空洞なのだった。與助は幸いにして、其の端の方を踏んだので、土はまだ浅く腰の邊まで没して留まったが、若し真ん中に落ちていたら、背は立たず、容易には出て来ることが出来ない事すらある。

 抑(そもそ)もアフリカの蟻は、その種類は様々で、中には隊を組み、幅四、五尺《1.2mから1.5m》で、長さ幾町《数百m》に行列して、野や山の区別無く進行し、遠きは数十里《70-80km》の外まで行き、生き物に行き逢えば直ちにその体に這い入(のぼ)り、幾十萬の多勢で手足、顔、身体の区別無く、隙間も無いほど取り付いて、瞬く暇に肉に喰い入り、払い落としても揉み潰しても、次から次と襲い掛かって来て、瞬く間にその生き物を喰い殺し、肉と云う肉を悉(ことごと)く食い取り、骨ばかりにして残して行く。

 昔から旅人で此の蟻の群に襲われ、一時間にして白骨と化した人は少なく無い。だからアフリカの内地に旅行する者は、此の蟻を恐れ無い者は無く、人のみならず、如何なる猛獣でも、又如何なる細かい蟲でも、蟻の軍来たると見ると、一散に逃げ去ろうと勉めない者は無い。

 今與助が落ち入ったのは、この様な遠征など企てる蟻の巣では無い。その種類はやや異なるが、肉に食い入る力は驚くべき程で、取り退(の)けても頭だけは肉に残るのを常とし、之も生き物を食い殺すことは瞬く間なのだ。幸いにして與助は蟻の多くない端の方に落ち、しかも直ちに出ることが出来た為め、蟻の全軍には襲われず、唯だその一部分に取り付かれただけっだったのだ。

 一部分とは云え、その数は数千の上なので、早や衣類を食い破って、肉に入ったのもあり、見る内に手や顔などは食い破られて、滾々(こんこん)と血が流れる有様なので、一同は今更の様に驚き、自分に蟻が伝って来る恐れが有るのも構わず、我先に手を伸べて蟻を揉み殺そうとすると、老兵名澤は、
 「其の様な事をしては蟻が貴方がたへ蝟集(たか)ります。」
と叫び、そのまま與助を抱き上げて、自分諸共小川の中へ飛び込んだ。



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