ningaikyou6
人外境(にんがいきょう)(明文館書店 発行より)(転載禁止)
アドルフ・ペロー 作 黒岩涙香 翻訳 トシ 口語訳
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第六回 鳥尾医学士の胸中
如何に恋慕う夫人の為とは云え、三学士は果たして此の危険極まるアフリカ内地の旅行に、随行する事を承諾すべきか。やがて返事の期限と云う七日目の夕方になったので、六時の鐘が鳴るか鳴らないかに、誰より先に名刺を出して通ったのは、三人中で最も真面目として知られる鳥尾医学士である。夫人は直ちに我が部屋へ通したが一目でそれと察し、
「アア貴方は大層早くお出でに成りました。この様にお早いのは、多分お断りの為でしょうネ。」
鳥尾医学士は少し極まり悪そうに、
「イエ、実は未だ何方(どちら)とも決心が附かないのです。それゆえ貴女へ御相談に参りました。」
夫人は敢(あ)えて気色を損ぜず、却(かえ)って幾分か気の毒そうに、
「アア貴方はお医者の職業ですから、引き受けて居る病人を捨てては行かれないと仰るのですネ。」
鳥「イエ私は開業しなくても、世を渡る丈の財産が有りますから、その様な病人は持ちません。唯だ貧しい病人を救う為め、慈善の施療を勤めとして居りますけれどー。」
と言って、更に何事をか言い出そうとしたが、夫人は早くも、
「でも慈善の病院には何所にも沢山の医師が就いて居りましょう。貴方お一人アフリカへ立った所で。」
「イエ慈善の病院では有りません。今でも世間には、死んでも貧民と見做されて慈善病院へ入れられるのは厭だなど言い張り、看(み)す看す病の重くなるのを我慢して居る、真の憐れむべき病人が有るのです。私は此の様な人を探し出してそれを救って遣るのです。」
夫人は熱心に、
「でも憐れむべき病人は、パリより外には有りませんか? アフリカの内地には医者も無く薬も無く、それが為に文明の恩に潤う事が出来ず、手軽い病にも療治を受けずに死ぬ人が、何れほど有るか分かりません。この様なな蛮地へ入り込み、学術の賜(たまもの)と云われる、進歩した治療を施して遣るのが、真の仁術とやら云う者では有りませんか。」
と道理を推して説きすすめると、鳥尾医学士は思い切った様子で、
「イエ夫人、私がパリを立ち去る事の出来ないのは、貧民への施療を大切に思うが為ばかりではでは無く、外に余儀無い訳が有ります。」
余儀無い訳とは何事だろうと夫人が眼を見開く間に、鳥尾医学士は殆ど自分で自分を制す事が出来ない人の様に、突(つ)と進んで夫人の手を取り、我と我が心の切無さに咽(むせ)ぶ声で、
「夫人、私しの心を良く汲み分けて下さいまし、先日貴女の計画を聞き、一週間を約束してここから帰った時は、実に是ほど嬉しい事は無いと思いまして、ハイ、アフリカの内地まで貴女と共に行き、貴女と艱難を倶(とも)にして、貴女を保護し、貴女を救う其の大任を頼まれるとは、実に何と云う仕合わせかと、嬉しさに身も忘れる程に思いました。
イイエ、夫人、貴女は未だ私の愛情が何れ程深いか知らないのです。何うか云う丈云わして下さい。私は物心覚えてから、唯学問に夢中となり、一心不乱に其の修行にのみ身を委ね、私の天職は唯だ医学にばかり在るのだと、堅く思い詰めて居りましたが、貴女を一目見た日から、世の中には愛と云う楽しい世界の在る事を知りました。
今まで唯だ勤めだと思って為(し)た仕事も、急に一種の楽しみが出て、昼間にこの勤めをさえ済ませば、夜に入ったら貴女の所へ行かれると、唯だそれが張り合いになり、穢(むさ)苦しい貧民の住居(すまい)に入るのが、極楽に入る程の思いがしました。辛いにも苦しいにも、絶えず貴女の姿が目の前に現れて、私を励ましました。ハイ真に貴女を我物だと思いました。
是ほど切ない愛情は決して届かない事は無い。遅かれ早かれ貴女を我物にする事が出来ると思えば、全く貴女の姿を自分の様に思って居ました。」
と胸に溢れる愛情を留め度も無く語り出るので、夫人は最初に此の言葉を堰き留めようと思ったが、何故にかそれ程の勇気も出ず、唯だこの様な熱心な大学者が血気盛んな年少の人と同じく、これ程までの愛情を発し得ることが出来るのだろうかと、且つ怪しみ且つ驚いて、眼を垂れて聞くばかりだったが、漸(ようや)く医学士の顔を見上げて、
「それほど私をお思い成さるなら、何故私と共にアフリカの内地へ入り込みません。」
医学士は殆ど恨めしそうに、
「それがですね、実は一人の老母が有ります。実に貴女の仰(おっしゃ)る通り、憐れむべき人は、パリに限らず、医術を知らない鬼域に入り、文明の澤に浴しない蛮民に施療するのが、何よりの仁術では有りますけれど、親へ尽くす孝養はそれよりも更に務めです。母と私は母一人子一人の間柄で、私がパリを去れば、母を介抱する者が有りません。
もっとも前から母へ、貴女の噂を聞かせては有りますから、今私が貴女に随(つ)いて鬼域へ入ると云えば、母は決して異存は云わず、却(かえ)って嬉しそうに、それは早く行くのが好かろうと、こう云うに極まって居ます。ハイ母は唯だ私を喜ばせるのを、何よりの楽しみと為(し)て居ますから、これより外は決して申しません。
けれどもその言葉に従って私が立てば、後で淋しさや懐かしさに泣き、死ぬのは必定です。もう身体も余ほど老衰して居ますから、私が行くのは母を見殺しにするのも同然、唯一人の子で有るのに、母の死に目を余所に見て、他国へ行く事が出来ましょうか。」
と、悲しさを推し隠して打ち明ける真心は、眼に籠る涙の光にも知られるので、夫人も真実気の毒の念(おも)いに耐えられない。
「成るほどそれでは行かれません。彼方は同行をお止め為さい」
医学士泣かぬ計かりに、
「ハイ貴女はそう仰るだろうと思いました。真に止める一方です。ハイ行く事は止めましょう。でも貴女は矢張りお出で成さるのですネ。アノ、アノ両人と共々に」
と言って、両人の語に異様に力を入れるのは、到底この夫人は、彼の平洲文学士か茂林画学士か、両人中の一人の妻になるに違いないと思い、心を自ら平らかにすることが出来ない為に違いない。
夫人も寧ろ打ち悄(しお)れて、
「ハイ」
と云うと、
「サッパリ、此の遠征を思い止まる事は出来ませんか。」
「何して思い止まられましょう。貴方が母御の死に目を、余所に見る事が出来ないと仰いましたのに、私は夫の死に目を余所に見ました。ハイ何所で何して死んだのか、それさえも見届けずに居られましょうか。」
「ダッて年も若い女の身で、男さえ十人が九人まで生きて還られない、恐ろしい所へ遠征とはーーー。」
「ハイ是も勤めです。致し方が有りません。若し野蛮人に喰われて死ぬなら、夫と同じ運命に倒れるのですから、残念とは思いません。」
凛乎(りんこ)たる一言に鳥尾医学士は再び諫(いさ)める言葉も無く、唯悄然(しょうぜん)《しょんぼり》として、
「では何時お立ちです。」
「それは今夜の相談で決めるのです。」
「アノ両人と相談して」
と又も両人の語に力を入れるのは、よくよく気に掛かることと見える。
「ハイ、併しどちらにしても直ぐに立つと云う訳には行きません。それぞれの支度が有りますから。」
「ではお立ちの前に又お目に掛かかれましょうか。」
「ハイ、立つまでは何時でもお出で下されば、お目に掛かります。」
「お立ちの後も行く先から何うか安否の手紙だけはお寄越しを願います。」
「ハイそれも郵便などの便利の無い土地ですから、思う様にも行きますまいが。」
「でも便りの有る度に、私からも手紙を上げて好いでしょうか。」
「それは何より願う所です。アフリカの内地へ入り、欧州から手紙を得るのは何よりも嬉しいと云う事ですから、知った人には皆願って置く積りです。」
と云う折しも、又も入り口に案内の鈴を押し鳴らす者あるのは、確かに平洲と茂林が来たからなのだ。鳥尾医学士はそれと知り、
「アア両人が遣って来ました。両人は私より仕合わせ者です。本に羨ましい。貴女に随行すると云う返事の為に、勇んで来たのに違い無い。夫人、私はアノ両人に逢う気が致しません。此方の戸口から帰して頂きましょう。」
「サアお出でなさい。」
と分かれの手先を握らせる夫人の心中にも、涙の光が籠れるかと疑われる。
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