巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

ningaikyou63

人外境(にんがいきょう)(明文館書店 発行より)(転載禁止)

アドルフ・ペロー 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

アドルフ・ペローの「黒きビーナス」の訳です。

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       第六十三回 帆浦女の災難

 帆浦女は何者に如何なる目に遭(あ)い、この様に異形の有様で、悔しそうに叫び、悲しそうに泣いて走って来たのだろうか。何を恥ずかしいと云って隅の方に走り込んで隠れたのだろうか。やがて半時ほどをも経て、帆浦女は漸(ようや)く衣類を着替え、様子をも直して、其の隠れ場から極まり悪そうに出て来たので、一同は其の仔細を問うと、唯だ赤面するばかりで、答たえようとはしない。

 何様不思議な事が有ったのに相違無いので、茂林、平洲、寺森の三人は言合せて、帆浦女に向かい、抑(そもそ)も此の一行は世界中の地学者に旅行記を報告すべき義務を負っている。一挙一動も曖昧にして、人の疑いを招くべきでは無い。

 特に貴女は地学協会其の他から世界有名な旅行家に数えられ、非常に尊敬せられている身なので、此の旅行中は貴女の身体は決して貴女の身体では無い。全く世界地学者共有の身体である。少しの事でも貴女の一存で押し隠す様な道は無い。どうしても口外する事が辛いならば、筆にて此の一行の旅行記中へ記入(かきい)れてください。

 一行の旅行記は通訳以下の雇い人達には示さず、帰国しても然るべき学者の外は、目を通さない者なので、其の中に書き入れても秘密は秘密として其の書中に保存せられるに違いありません。決して俗人の口端(くちは)に上る様な気遣いは有りませんと、勿体らしく道理を附け、煽起(おだて)る様に、威(おど)す様に言い聞かせると、帆浦女は漸く承知し、旅行記の中へ下の様な詳密な一項を手づから書き入れた。

 実に此の旅行に上ってから、私の一身は私の一身では無い。
全世界の地学者に対し非常に重い責任を負う者なので、いつも少しの事柄も決して隠すことはしないようにするというのが私の決心です。

 それならば何故曾(かつ)て、「トーレグ」種族の酋長に捕われて居た時の事柄を、世に告げないのかとの御疑いも有るとは思われますが、彼の事は特別である。一行の頭であるタイネ嬢は既に殺され、即ち地学上の旅行者である資格が既に尽きた後で、私丈け捕らわれた事なので、全く私一身の秘密にして、地学者に知らしめる責任は有りません。

 此の度の事は之とは異なり、其の上資格が存する間ですので、隠さないで報告します。先ず最初から記すと、
 私は数日来、心の中に病がありました。其の病が何の為に起こったのかは地学に関係無いので云いません。兎に角気分が勝れなかったので人知れず鬱(ふさ)いで居ました。

 此の日は「ゼリバ」全体が甚だ静かで、雇い人は皆な昼寝し、芽蘭(ゲラン)夫人は閉じ籠って手紙を認める事に身を委ね、平洲、茂林は木陰に横たわって余念無く煙草を燻(くゆ)らせ、寺森医師は黒人の女共に、仏国語を教えると云って其の控え所に入って行き、誰れ一人私を顧みる者が有りませんでした。

 全体寺森医師などは、何も余計な教授などしなくても、外に話し相手は有る筈なのにーーー。併しそのような物好きの気質に生まれて来ているとならば仕方が無い。私は唯一人、心の病に悩み鬱ぎ込んで、「ゼリパ」の囲いの外を歩んで居ると、向こふの方にある小山の木々が、青々と涼しそうに見えたので、彼の森に入り、木陰に休んだなら幾分か心も休まるだろうと思い、行くとも無しに進んで行くと、思った通り好い所で、水静かなる谷川も有り。庭に作った様な芝草の広場も有り、我れ知らずに奥深く進んで行きました。

 樹の生い茂れる中を此方彼方と縫い廻るうち、忽(たちま)ち一方の木の枝に三四匹の猿が居ました。感心して私の姿を眺める様子なので、私はこの様な蛮地の猿共に、文明国貴婦人の優(しとや)かなる姿を見せて遣るのも功徳かと思い、全くの慈悲心から其の樹の近くまで進んで行くと、猿は無礼にも拳ほどの木の実を取り、私の肩に投げ附けました。

 其の木の実が非常に堅く、肩に痛みを覚えたので、少しは思い知らせて懲らしめるのが後々の為と思い、私は毎(つね)に身に離さない護身の短銃を取り出し、嚇(おど)かしまでに一発を打つと、銃の音をさえ知らない此の辺の猿なので、驚く事さえも思いつかないと見え、逃げ去らないのみか、四方から同じ種類の猿が忽ち群がり来ました。

 枝と云う枝全てに取り付き、木の実を取っては投げ附けることが雨よりも繁げく、私は常に天日を防ぐ為め、青色の眼鏡を掛けて居ますが、若し其の眼鏡を砕かれては、掛け替え無しと、しばらく俯向いて避けようとすると、十余個の木の実が一時に私の脊(せな)へ降って来ました。

 どうしようも無いので仕方が無く、短銃を続け打ちに打ちましたが、悲しいことに、猿には一つも中らず、猿は弾丸の尽きたのを知ってか、嘲(あざけ)る様な声を発し、口を開いて歯を出して、私を愚弄する様子が如何にも面(つら)憎く、実に腹立たしさに耐えられませんでした。

 兼ねて聞く兵法の奥義は、敵の弾丸を以って却って敵を攻める事に在りと云うことを思い出し、猿の投げた木の実を拾い、逆撃ちに投げ附けると、猿は非常に巧みに身を反し、之も又一つも中(あた)らず、却って猿の嘲(あざけ)る様が益々甚だしくなりました。

 其の上更にその同勢さえ愈々増して来るばかりだったので、最早や貴婦人の身を以って、この様な奴輩(やから)に恥ずかしめらるべきでは無いと思い、我が身分を考えて其処を逃げ去ると、猿は枝から枝に伝って来て、幾町《数百m》をか追い掛けて来ましたが、漸く樹の無い広い草原に出た為め、彼等は初めて追い来ることを止めました。

 私の顔も肩も殆ど瘤だらけとは為りましたが、別に血の出る程の傷は無かったので、是で災難は過ぎ去った者と思って居ましたが、悲しいかな是れが災難の端緒(いとぐち)で有りました。



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