巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

ningaikyou65

人外境(にんがいきょう)(明文館書店 発行より)(転載禁止)

アドルフ・ペロー 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

アドルフ・ペローの「黒きビーナス」の訳です。

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        第六十五回 帰り着いた帆浦女 

 無礼も無礼、人の衣類を盗み去り、却(かえ)って此方(こちら)を嘲(あざけ)る様に木の上から示すとは、実に一刻も許して置かれない。そうは云え追って行くべき道も無いので、私は唯だ歯切(はぎし)りするばかりだったが、憎いことに猿の中の王かとも思われる一頭は、上着を寸断寸断(ずたずた)に割(さ)いて示し、その妻かとも思われる牝猿は、短胴(チョッキ)を後ろ前に着て誇り、靴を頭に頂いて喜ぶ小猿も居り、短銃の筒先を口に咥(くわ)えて弄(もてあそ)ぶ者も有った。

 切(せめ)ては一発、過って彼れ自ら射殺されることを思ったが、全くの空頼みであった。弾丸は先刻射尽くして、一発も残さなかったので、如何に間違うとも発射する恐れは無い。或者は覆面(ベール)の絹を取って首に巻き、或者は財布の金貨を取出だして川に投げ込みなどをした。

 憎いことは言い様も無かったが、いずれにしろ此のままで、何時までも居る訳には行かない。何とか身の振り方を附けなければならないとは云え、振り方の有る筈は無く、仕方が無いので、日が暮れるのを待ち、身を夜の暗さに包んで帰って行こうか。そうすれば人に赤裸体の、此の様を見られもしない。

 否々、夜に入れば、道も無い此の森林に踏み迷うのはさて置いて、猛獣に襲われる恐れが有る。そうで無くても此の猿等が、此の上如何なる恥ずかしめを加えようとするかも知れない。

 この様に思っては、今まで人が来ることを恐れていた身も、誰か此の所へ来てくたたら好いのにと、人が懐(なつ)かしく、若し来たならば、再び川に入り、首ばかりを水の面に出して、其の人に仔細を語り、着替えを取寄せて貰う者をと、空しく四辺を眺めて首を延ばしたが、嘲(あざけ)り笑う猿の外には、目に留まる生き物は無い。

 何度思い直しても、好い工夫が浮かんで来ない。兎に角にも此の姿で人家がある所まで、歩るいて行くしか方法が無い。森の尽所(はずれ)に、確か原住民の家が有った。彼等は年中裸体で世を送る者なので、衣類の用意が無い事は勿論だが、衣類に代わる何か有るに違いない。獣の皮でも好い。破れ筵(むしろ)でも贅沢は言わない。

 唯だ此の膚を蔽ひ隠す事さえ出来れば、其の品を借り受けて、「ゼリパ」まで帰って行こう。そうだ、其の外に工夫は無いと、漸く思いを定めたけれど、生まれて以来三十年、否々、私の年齢は地理学に関係無い。女の秘密は年齢であるとさえ云うのでここには記し難い。

 兎に角三十年近い今まで、裸体では一歩も歩るいた事が無き身を以って、たとえ原住民の前であっても、如何して此のまま行く事が出来ようか。原住民でさえも、腰の廻り丈は蔽(おお)って居るものをと、又も途方に暮れ、此方彼方を見廻すと、川の一方に、葉が非常に広い水草があった。

 多分は蓮の類に違いない。其の葉を二、三枚取り合わせれば、原住民の家へ行くまでの凌(しの)ぎには為るに違いうないと、再び川に泳ぎ入り、広い中にも広い葉を数枚折取り、陸に上がって、猿等の益々嘲(あざけ)けるのには振り向きもせず、覚束無くも肩から腰の辺りまで、包むことが出来たのは、我れながら愛想が尽きる姿ではあるが、顧みる場合では無い。

 是から一散に走り去ろうとすると、日頃健脚と云われた足も、靴が無くては活智(いくじ)無く、石に傷つき荊に掻かれ、痛さ苦しさは言う言葉も無かったけれど、それよりも気が引けるのは、身を隠している水草の葉が、物に触れる度に、千切れ去る心細さである。

 それも是れも少しの間と、度胸を据えてからは、勿々(なかなか)に肝太くなり、辿り辿って辛(ようや)く原住民の小屋に着いた。恐々(こはごは)に中を覗くと、狩りにでも出て居るのか、留守であった。幸いに人の気無く有難い。

 室の中央(なかば)に、此の辺りには有る筈の無い、幅広な金巾(かなきん)《木綿布》を広げて有った。思えば是れは、昨日吾が隊が、此の邊を通り過ぎた時に與(あた)えた品である。断わり無しに持ち去るのは、気が引けるが、後で送り返せば罪にも成らないだろう。

 之を身に纏(まと)えば、「ゼリパ」まで帰る事が出来ると、其のまま入って行って、其の金巾を取り上げると、恐ろしや恐ろしや、下から昼寐をしていた原住民二人が驚いて跳ね起きた。彼等は蠅を防(よ)ける為、此の金巾を掛けて居たる者と見える。

 彼等は私を泥棒と思ったのか、声高く罵(ののし)ったが、何の事なの分からなかった。私は唯だ余りの意外に、何と云ったら好いか言葉も出なかった。唯其の金巾を、両手で芝居の幕の様に我が身の前に張り、顔だけを出して見て居ると、原住民の一人は「それ返せ」と云う様に、金巾の端に手を掛けた。

 取り返されて成るものかと、私も必死の力を出して前に後ろに引き合うと、元々此の金巾は、荷物を軽くする為に成る可く地の薄いのを選んで来た物なれば、引き合ふ双方の力に耐える事が出来ず、中ほどから二つに破れてしまったので、原住民は又驚いて逡巡(たじろ)ぐ間に、私は我が手に残る半分の切れを胴より下に巻き、肩が現われるのは不都合であったが、夜会に大礼服を着ける貴婦人達の姿を思えば、それほどまで恥ずかしい事も無く、又恥ずかしいと云う時では無かったので、後から追って来る原住民に追い付かれまいと、足の痛むのをも打ち忘れ、力限りに逃げ逃げて、終に「ゼリパ」まで逃げ込む事が出来た。

 これが嘘も偽りも無い露骨な事実である。この事を恥ずかしと思った為め、人に知らせない心であったが、思ひ直せば別に恥づべき所は無い。女の身として、この様なまでの危険を冒し、この様なまでの艱難辛苦したことは大いに地理学上の参考とも成るに違いないと信じたので、打ち明けてこの様に記(しる)すのだ。



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