巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

ningaikyou89

人外境(にんがいきょう)(明文館書店 発行より)(転載禁止)

アドルフ・ペロー 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

アドルフ・ペローの「黒きビーナス」の訳です。

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        第八十九回 愈々最暗黒の地へ

 茂林は目を剥(む)いたけれど、如何とも仕方がなく、寺森の命の儘(まま)に従がって行くと、百余の女を豚の様に押し込めた小屋の真ん中に、一坪ほど筵(むしろ)を敷き、勝負の場所を設けて有った。

 寺森は先ず蝋燭を点(とも)し、何事かと怪しむ黒女どもを押し分けて進み入るので、茂林も共に行って座に付くと、黒女の身体から発する汗や息の気で、咽ぶ程暑かったが、暑さより更に甚だしいのは、黒女の身に特有な一種の臭気である。

 彼等は昼間からの暑さに、且つは死刑に処せられようとする恐ろしい場合に臨み、身を藻掻き気を労して汗水に濡れた上、湯浴(ゆあみ)さえせず、一団と為ってここに閉じ入れられたので、汗か脂か、紛々鼻を衝く様は、曾てナイルの河で、恐ろしい奴隷舟を検(あらた)めた時に異なない。

 茂林は顔を顰めて寺森を叱し、
 「君は健康の害になる事を知らないのか。」
と云ったが、寺森は平気で、
 「健康の害になるのは君も僕も同じ事だから五分五分だよ。」
と答えた。

 この様な中で悪臭は目と鼻に浸み透る程なので、
 「僕は何うしてもここには居られない。君は実に無神経だよ。此の悪臭が分からないのか。」
 「分かるけれど耐(こら)えて居るのサ。」
 「僕には一刻も耐(こら)えられない。此の勝負は僕の負けだ。」

 「負けたと云っても、闘わないうちに分かる者か。サア勝負を仕よう。」
 「イヤ闘ったも同様だ。僕は負けたものと自認するから、何うか外へ出して呉れ給え。」
と云い、逃げ出だそうと立ち上がると、寺森は確(し)かと捕えて動かさない。

 「それでは君、愈々今日の勝負は正当に負けた者と閉口するか。」
 「勿論」
 「後で僕を指し、不正の手段で人を苦しめて勝ったなどと評すると許さないよ。」
 「決してその様な事は云わない。全く負けたから許して呉れ給え。」
と云い、振り放って逃げ出すと、寺森は非常に満足そうに、笑みを浮かべて出て来て、

 「アア好い気持ちだ。到頭計略を以って負かして呉れた。」
 「君は実に臭気を感ずる神経が無いと見える。本当に呆れ返るよ。」
 寺森は益々笑い、
 「ナニ神経が無い訳では無い。僕は鼻の穴へ乳酪(ばたー)を詰めて置いた。」
と云い、鼻を清めて白状したので、茂林も用意周到な此の謀事には感心し、
 「是れは実に謀られた。」
と大笑いして終わった。
 
 翌日になって魔雲坐王から、一同の出発を新月から五日目の日に定めては如何と問うて来た。新月から五日目は月が半弦に達する頃なので、是れから王は日々行軍の用意を運ぶ様子であったが、やがて約束の日も近づいた或る日の事、用意が既に整ったので見物旁々来たれよと言って越こした。

 平洲、茂林、寺森の三人は、老兵名澤、通訳亜利の両人を引き連れて、王宮に行くと、先に幾棟か並んで居た後宮は、焼き尽くして野原となり、ここに幾多の輜重(しちょう)を積み、王自ら点検しつつ有った。

 そこでその大体を検めて見ると、数千の兵を引き連れるには、兵糧が甚だ少な過ぎるので、王に其の事を注意すると、王は、
 「否、此の先には所々に小部族がある。道々其れ等を攻め亡ぼして兵糧を取り乍ら進むのだ。」
と事も無げに答えるので、さては我が一行の計略から、幾多の罪も無い部族を、此の王に攻め亡ぼさせる事と為るかと、茂林は穏やかでは無かったので、

 「否、此の旅行は平和の旅行なので、先方から此方を襲わない限りは、決して戦わない事に定め、予め充分な兵糧を準備して進まれよ。」
 「兵糧を準備するのは易いけれど、戦かわなければ卑怯として、白女に賤しまれよう。我れは戦って白女に我が勇を示し度い。」

 「戦わなくても白女は御身の勇を知って居る。此の上に御身が慈悲の心に富む事を示すならば、白女は益々感服するに違いない。」
 王は稍(や)や深く考えた後、
 「然らば其の言葉に従がおう。」
と答えたが、是からして明日出発と云う前日の朝になって、再び王から招かれたので、又行って検め見ると、今度は兵糧が山の様に積まれ、之を運搬する人足までも定めて有った。

 平洲も茂林も満足の旨を答えると、王は更に一方にある野原へ案内し、ここで兵士三千人ほどの練兵を行って、一同に見させたのは、即ち観兵式とも名付けるべき者に違いない。此の土地はアフリカ内地の中で、割合に物事の進歩した所で、鐵を以って造った槍、その他の武器が多い。

 曾て此の地に来た彼のシュウエインハース氏が、ここから先に必ず一種の文明国があるに違いないなどと想像したのむ無理はない。真に幾分かは人智の開けた者にして、特に兵の式などは、一号令で全軍を左右し、軍律少しも乱れない様は嘆賞するに余りある。

 此の精兵を引き連れていれば、如何なる旅行も安全であると思われるが、さて翌日は愈々(いよいよ)名も知れず、地理も知れない、曾て文明国人が足跡を印した事の無い、最暗黒の地に出発する事とは為った。



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