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野の花(前篇)

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ミセス・トーマス・ハーデー著  黒岩涙香 訳  トシ 口語訳

野の花

           三十八  「思い置く事は無い」

 品子と相対して腰をおろして、冽の第一に吐いた言葉は、
 「イヤ、今夜は実に貴方のお陰で、近年に無い面白い思いを致しました。」
と言うに有った。

 この言葉を漏れ聞いた澄子は、早や失望の念が胸に湧き出て、もうこの後を聞くには及ばない思った。もしや、今もなお、いくらか我が身を愛して居るような気配が、言葉の中に認められようかと、心待ちに待ったのは空頼みだ。品子と手を取りあって踊るのが近年にない面白さとは、妻と十年の楽しみが、他人と一夕の喜びでしかないと言う意味にもなる。これでどうして夫婦と言う情が続けられよう。

 けれど、夫の言葉が不愉快なだけ、なお更その後が聞きたい。もしや、この次にはと、いわゆるもしやに引かされるのである。
 「イイエ、それは私の言うことです。」
と品子から返事が出た。

 けれど、品子は冽ほど嬉しそうに見えない。日頃ほども嬉しそうに見えない。なんだか憂いを帯びている。
「でも貴方は心が引き立たないように見えますが。」

 品子は十分に冽の顔を見上げて、
 「ハイ、これ限りで当分貴方にお目にかか留ことが出来ないと思うと、心細くなります。」
 口ごもるように考えながら言っている。
 「名残の惜しいのはお互いですよ、私としても貴方や母や良彦が居なくなれば、どうして日々を暮らせるかと、今からもの淋しく思って居ますけれど、これも致し方有りません。」

 澄子さえそばに居れば、少しも他に不足を感じないように見えていた数年前とは大した違いである。全く冽の眼中には、澄子という者は無いのである。品子に去られては、後に澄子が留まるとも、ただ一人取り残されたような気がすることが、言葉の上に明らかに現れている。

 確かにこの身は夫のために、荷厄介となっている。
 「これも致し方有りません。」
と言うのは、澄子と言う荷厄介があるため、分かれたくはないがやむを得ないと言うのに他ならない。この身がこの世に有るのは夫の邪魔になるのだ。
 真に、
 「当人の死ぬまでは仕方がない」
のだ。邪魔よ、荷厄介よと思われて、何時までその邪魔に、その荷厄介になっていられよう。今という今は全く思い知った。

 もしや、澄子の決心に、いくらかの弱点があったとしても、今はその弱点がすべて消えてしまった。この身が世を去るのは夫のためである。夫の身に自由を与えるのである。少しでも夫を愛する心が有れば、妻としてしなければならない事柄であると、狭い心でこう思い詰めた。恨みではない、嫉妬でもない、これが女の道である。

 品子;「貴方がそのように優しいことばかり言って下さるから、私はまだあきらめが、イヤお名残が惜しくなるでは有りませんか。」
 冽は無言である。澄子のところまでは聞こえないが、或いはため息をついているようにも思われる。

 品子は少し方面を変えて、
 「それにですね、澄子さんがあの通りで、ちょうど貴方が色々ご心配の時ですから、尚更私はお側にいて、お手助けにもなって上げたいように思い、後に心が残ります。」
 澄子さんがあの通りでとは、あんまりな言い方である。

 今度こそはこの身をかばうような語気は見えるだろうと澄子は又思ったけれど、そのような語気は出ない。実は、品子が冽の前で澄子のことをこのように言うのは今が初めてではない。母御でもやはり、
 「澄子があの通りだから」
と口癖のように言うのだ。

 冽は品子と母親と三人の間で、澄子が「アノ通り」と言うことは既に形容詞にまで確定して、争うべからざる事実となっている。この時冽は何のためだか知らないが、その場に不相応にかかかと笑った。

 その笑いたるやだ。冗談の様でもあり、決まり悪げでもあり、話を紛らわすためなのか。それとも、冗談のように実は本音を吐くつもりなのか。
 「この様になると知れば、貴方と夫婦になっていたら好かったでしょうに、アハハハハ」
冗談としては、余りに不必要だ。

 品子は何と聞いたか顔を赤らめて
 「アレ、又アノ様なご冗談を」
と、決まり悪そうに言った。アレ又と言う又の語を考えてみると、初めてでは無いと見える。
 「冗談では有りませんよ、アハハハハ」

 笑わなくても好いのに、何を笑うのか。冗談としてもはなはだ不謹慎だ。妻ある男なら決して言うべきでない。心に無くしてこの様な冗談が出るだろうか。

 品子;「貴方は罪作りですよ。」
と言って立ち上がった。冽も立ってすぐ抱き留めた。
 「これが本当のお別れですか。」
 「はい、もう出発の日まで、ゆっくりお話の出来る時もないでしょう。ここでおいとまを告げて置きましょう。」
 「実に残念です。」
との声と共に品子の額にキスをした。

 幼いときから兄弟のように育った仲とすれば、この様な場合にキスをするのは怪しむに足らないかも知れないが、けれど、二人はこの様子をもし人に見られて、少しも赤面しないであろうか。これはいささか疑問である。

 澄子は話の終わりの方は聞き取れなかった。「アノ通りで」と言われて、後は逆上して耳も目もくらんでしまった。ようやく物心の返った時には早や、冽と品子が立ち去った後だった。

 「もう、何にも思い置くことは無い」
 この一語をつぶやいて、家に帰った。可愛そうに踏む足もよろめいている。



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