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野の花(前篇)

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ミセス・トーマス・ハーデー著  黒岩涙香 訳   トシ 口語訳

野の花

           四十九  「奪う者は奪われる」

 悲しみの中にも、妻澄子のこの死骸を何とかしなければならないと言う考えが、夫瀬水冽の胸に湧いて出た。
 何としよう、兎に角、子爵夫人と言う生前の身分に相当するだけの尊敬を加えなければならない。立派に引き取らなければならない。葬式をも営まなければならない。これらは勿論の事である。

 そこで母に宛てて事の次第をことごとく認(したた)め、家僕数名を次の汽車で送ってくれるようにとの旨を書き添えて、長文の電報を駅から発した。
 この電報を読んだ母御の驚きは見栄も飾り気も無く、全く動転してしまった。余り神経を動かし過ぎた為でも有ろう、直ちに病人の様になり、幾日もの間、寝床を離れることが出来なかった。もとより無理もない所である。

 次に品子の方はこの電報でどのように感じただろう。これは誰も知ることは出来ないが、伯母御の読んだ電報を受け取り、その中の依頼通りに家僕数名を送り出した。万事に落ち度なく注意したのは品子であった。もし、品子が居なかったなら、必ず万事の運びが遅くなったのに違いない。

 そして、品子は女相当に嘆いた色を見せ、姪相当に伯母を慰めようとも努めた。けれど、それらの事を済まして自分の部屋に入り、中から戸を締め切った時には、耐えきれないような笑みが顔全体に現れた。

 「全体、身分が過ぎて居るからこの様なことになるのだ、誰のせいでも無い。人の位置を奪う者は、又自然にその地位を返さなければならない時が来る。」
と考え、考えつぶやいた。

 自分が澄子の地位を奪おうと精を出した事は思わずに、澄子が冽の妻たることをば、自分の位置を奪って居る様に言うとは、随分勝手な考えである。けれど、
 「奪う者は奪われる。」
と言うこの言葉が、どれほど当たるかは、後に分かる時があるだろう。

 間もなく、この別荘は、喪標を掲げた。客室の窓には黒いカーテンが掲げられた。そして召使いの給仕人などは、皆喪服を着た。これ程陰気な様子はない。昨夜、徹夜のパーティーに人間の歓楽を一家に集めたかと思われたのが、今日は早や、この有様。これが人生の転変計り知れない所であろう。
 昨夜から残って泊まっていた多少の客も、それぞれに用事や都合などを言い立てて去ってしまった。

 この翌々日となって澄子の死骸と思われるあの無惨な死骸は、冽自身が付き添って、非常に丁重にこの家に引き取られた。勿論、旅先とは言え使用人も付いている事だから、この間に大葬儀の準備も進んだ。

 この又翌日となって葬式を営んだ。知っていると知らないとにかかわらず、この土地の人々はほとんど皆見送りの列に入った。実に盛大な葬式であった。なるほど、英国の貴族瀬水家の当主の夫人の葬儀はこうも立派なものであるかと、万人が感心した。

 墓は日当たりの良いこのフローレンス(フィレンツェ)の最上の墓地である。とりあえず、仮の墓標を建てたが、その墓標は、その後、冽の一家が英国に引き揚げる前に、雪のような清い大理石の墓標に建て替えられた。墓標の面の文句は、
 「英国貴族瀬水冽の最愛の妻・子爵夫人澄子の記念の為に、深く悲しめる夫、泣いてこれを建つ」
と言う意味であった。これで澄子は全くこの世に亡い者となってしまった。

 葬式が済んで二日目に、澄子の父、陶村時正が英国から来着した。勿論、訃報の手紙は冽から出したが、父が英国を出たのはその手紙を受け取る前だった。あんまり娘と遠のいて、老いの心に、懐かしさの耐え難いため、会いに来たのだ。

 もし、訃報(ふほう)を読んで、その上で出て来たのなら、今更それほど悲しみもしないだろうが、全く死んだと知らないで来て、一昨日葬ったと聞いたため、到底人間の言葉では慰めることが、出来ないほど悲しんだ。



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