nonohana105
野の花(後篇)
トーマス・ハーデー著 黒岩涙香 訳 トシ口語訳
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ミセス・トーマス・ハーデー著 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
野の花
百五 「綺麗な水薬」
この時全く河田夫人は、冽(たけし)に縋(すが)りついている品子の憎さよりも、品子を押しのけようとしている冽の愛(いと)おしさを余計感じた。けれど、この様子を盗み見ている気はない。「アノ、私をお召しになりましたか。」と相も変わらない自分でわざと低くしたような声で聞いた。
品子は慌てて冽のそばを離れた。夫と差し向かいなら格式をくずしても構わないけれど、その格式をくずしている様なところを他人に見られるのは嫌なのだ。この女は妻として夫の機嫌を取るのを、格式にさわることと思っている。
これだけで日ごろの高慢さが分る。そして直ぐに何気なく、
「サア、河田夫人、ズッとこちらへ、子爵が待っておいでです。」
と言った。「ハイ」と進み出る河田夫人に対し、
冽;「良彦はどうですか。先ほど主治医が見たときより少しでも好いところは見えませんか。」
と聞いた。
冽は良彦の少しでも好い知らせを得たい一心のほかに何にも無いのだ。河田夫人はいい憎そうだ。
「ハイ、別に好いと申し上げるほどの事が無くてお気の毒です。けれど、私の気の迷いか少し、ホンの少しですが、良さそうなところも有るかと思います。」
冽;「それは如何(どう)いうところに。」
河田夫人;「今夜は少しうわ言が少ないようです。そしてただ今体温を測りましたが、昨日と、一昨日の今頃より、これはもう極わずかで一分とも、一厘とも言えないほどですが、下がっているかと思います。あるいは気のせいかもしれませんが。どうか、まあ、―――、少しの間でも目を閉じて眠ってくださればと思いますのに。」
と嘆かないばかりに言った。
言葉のどこにか、ほとんど争うことの出来ない真実の熱心さがこもっているので、冽も品子も思わずこの夫人の顔を眺めた。
悲しむまいと思っても隠し切れない悲しさが、青いめがねを掛けた顔にさえ現れている。
冽;「きっと貴方もご心配でしょう。」
河田夫人;「ハイ、心配です。」
品子も柔らかに、「貴方のお子もこのように長く患いましたか。」
夫人;「ハイ、長く患いました。」
冽;「そして、自分で看病なさいましたか。」
夫人;「夜も人手に掛けずに看病しました。」
とほとんど声を震わせて言うこの返事にどれほどの辛さがこもっているか、冽も品子も察した積もりで実は察することが出来ないのだ。
やがて、冽は気を励まして、
「実は、主治医の指示を貴方に伝えて置きたいと思い、お呼びしたのです。後で主治医から最後の薬として、新開発とかの催眠剤を寄越すそうです。その薬で、良彦が眠るなら助かるが、それでさえ、眠らなければ、到底見込みは無いと言っています。」
河田夫人は、両手を握り締めて、
「それでは眠らなければ見込みは無いと。」
冽;「ハイ、残念ながらそう聞きました。今夜、なるたけ遅く、なるたけ静かにしてと言いますから、十二時過ぎが好い刻限でしょう。」
夫人;「ではその時間まで、私が一人で付いていて手ずから飲ませましょう。」
冽;「そう願いたいのです。家の中では少しの物音も立てないように、十時限り、一同を寝かせますから。」
後はしばらく三人とも言葉が無い。
冽は時計を見て、
「今が八時だ。もう薬が来るだろう。」
と言い、更に、
「本当に貴方のおっしゃるとおりでしょうか。今夜は昨夜、一昨夜に比べて幾らか熱が下がって居ましょうか。」
夫人:「ハイ、それに様子が何時もより静かです。あるいは追々眠りが近づいて来るしるしでは無いだろうかと、私は少し見込みが出て来たように思います。」
言いながら何だかふと品子の顔を見た。品子も河田夫人の顔を見た。
品子の顔は今まで悲しそうに装っていたが、少しだけれど、見込みが出てきたと聞いて、たちまちその色は消え、腹立たしい色となって、一方なら無い意地悪な相好が現れている。実にけしからん訳である。
良彦に少しでも良さそうなところが見えるのが何で腹立たしい。眠りに飢えている病人へ眠りが近づくように見えるのが何で残念だ。夫人はジッと品子の顔を見、品子も同じく夫人の顔を見、しばらく異様に見合っていたが、さすがに気がとがめるところがあるだけ品子の方が早く眼を他に転じた。
折から従者が、主治医からの薬を取り次いで持って来た。これが最後の試みと言う催眠剤だ。この薬の効くか効かないかというところが、全く良彦の生死の境なのだ。
冽はこれを受け取って、包み紙を開いた。中には小さい瓶がある。ランプに透かして瓶を見ると、清水のような綺麗な水薬が入っている。冽が見終わると、
「オヤ、どのようなお薬です。」
と軽く言って品子が手を出した。冽は何気なく手渡した。
勿論品子に見せたとて構わないけれど、何だか河田夫人は、品子に見せなければ好いのにと、このような気がした。