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野の花(後篇)

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ミセス・トーマス・ハーデー著  黒岩涙香 訳   トシ 口語訳

野の花

百十九 「最後の真心」

 青い顔をして入ってきた河田夫人は、少しの足音もしないほど静かに、先ず冽のそばに行き、
 「何か私に出来るような御用は無いでしょうか。」
と聞いた。冽は胸が一杯にふさがっていて、返事する言葉も出ない。ただ頭を下げて謝意を表した。

 河田夫人は又静かに、品子のベッドの所にその向こう側に腰を下ろし、ほとんど自分の顔が品子の顔に接するほどにうつむいた。けれど、この時誰も河田夫人が何をしているのか知らない。いや気にも留めない。居合わす医師は手帳を見ながら何事か考え込み、冽の方はただ悄然と首を垂れていて、二人ともこっちを見ないのだ。

 河田夫人はしばらく品子の顔を打ち眺めたが、もう到底この世の人ではないと言うことは疑えを入れない。
 「品子さん、品子さん」
とささやいても、唇さえ動かさない。

 夫人は同じささやき声で、
 「品子さん、私の言葉が聞こえますか。どうかお聞き取りください。貴方と私は本当に仲良く出来ませんでしたが、もう総ての恨みを忘れましょう。昨夜のことも忘れてしまえば、決して誰にも口外しませんから、どうか心を静かにお持ちください。そしてこれまでの私の憎いところもお許しください。」

 他の人には聞こえないけれど、品子にまだ命があるなら聞こえるに違いない。このような優しい、このような慈悲深い真心はたとえ死んだ人にでも通じずにはいないはずだ。通じたならば、品子にはどれほどか有り難いだろう。

 昨夜のことさえ澄子が口外しないなら、誰も品子を性悪女とは知らず、したがって悪く言う者も無く、、品子は後々までも夫冽にあがめられ、一家の内からも敬われ、また知っている人一般から、よく行き届いた婦人であったと先ず褒められて伝わるのだ。

 ただこの一言で品子は極楽往生を遂げることが出来るだろう。これをもし品子が澄子の死んだと思った後までなお憎みの思いを蓄えていたのに比べたら、同じ人間でありながら、どうしてこうまで心根が違うのだろう。

 自分の子が毒害せられかけたことを誰にも言わず、又多年自分をいじめられるだけいじめていた仇敵を、死んだ後までかばってやると言うことは大抵の人に出来ないばかりか、特に澄子にとっては決して都合の好いことではない。

 けれど、自分の都合などと言うことは少しも澄子の心には無いのだ。道理で良彦の枕元の台の上に品子がそっと載せて置いたあの偽瓶なども何時の間になくなったか、その様な偽瓶が合ったことさえ、誰も見た者はいない。

 澄子の河田夫人はなおもしばらく品子の顔を眺めた末、そのほとんど冷ややかな唇にキスして、最後の真心を印した。そして又静かに立ち上がって、この部屋を出て行こうとすると、冽が呼びとめ、「河田夫人、どうか品子のために、後生のことをお祈りください。」
と言った。

 夫人はひざを折り、もはやこの世で神の恵みを祈ることが出来ない品子のために、非常に熱心に神の恵みを祈り始めたが、その清い涼しい声は、品子の霊に通じるよりも、異様に冽のはらわたに響いた。

 そのうちに医師は立ち、
 「いやもうお祈りの終わるべきときが来ました。」
 その意味は全く品子が息を引き取ったことを知らせるのである。
 この言葉を聴いて冽は一応品子の顔を見たが、もはや疑うところが無い。全く事切れである。こうなると、流石に断腸の思いに堪えない。

 彼は顔に手を当て、
 「エエ、何かの祟りでも有るのだろうか。前の妻澄子が、怪我のためにアノ様な恐ろしい死を遂げて、そして品子はこの通りーーーこの通り。」
と咽びながら恨みを叫んだ。その心中は実に察するに余りある。

 だからと言って死んだものはもはや仕方が無い。ただ諦めても冽の心に残るのは、なぜ品子が、危険を知りながら当歳の馬を馬車に付けたか、なぜこうしてまでも町に行かなければならなかったのかとの疑念だ。

 誰にも聞けるだけは聞いて見たが、更に分らない。或いは町に何か約束でもあったのかそれも調べたが、その様な様子も無い。もし澄子が何もかも打ち明けたら、充分納得が行くだろうが、澄子は決して打ち明けない。

 日が暮れて後に打ち明けると決心していた自分の素性をさえも、もう打ち明けるには及ばないことになったと思ってか、依然として包み隠している。このためについに冽は、全く品子がリュウマチの痛みに耐えかね、一刻も待つことが出来なくなって家を出たのだと、仕方なく思うことにしたので、品子の記憶は無傷に彼の心に残っていることになった。

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