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黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

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野の花(後篇)

野の花

ミセス・トーマス・ハーデー著  黒岩涙香 訳   トシ 口語訳

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since 2010・7・4

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六十七 「ジッと河田夫人の顔を見た」

 冽は帰る道々も、河田夫人のことを考えた。春田博士があれ程に誉めるとはどのような女性であろう。兎も角、妻品子に聞かせれば、喜ぶに違いない。なるべくは出来るだけの親切を尽くし、学校に居ても居心地の好いようにし向けてやりたいものだ。などと、妙に同情を引き起こした。

 この夜、冽は、品子に話し、河田夫人に書籍や図画などを贈り、更に時々注意してこの家の庭園にできる花や果物などを贈ってやるように説きすすめた。

 勿論、学校の事を好くするのは、自分の名誉を高くする元だから、品子は十分に賛成した。けれど、話している中に、元々邪推に富んだ女だから、ふと、妙な疑いを起こし、冽に向かって、
 「貴方は大層河田夫人に同情をお寄せなさいますね、もしや、どこかでお知り合いの婦人ですか。」
と聞いた。

 冽はか、か、かと打ち笑った。
 「知り合いなどと、その様なことがあるものか。」
 全く誠の言葉であるから、品子の疑いは直に解けたけれど、冽は品子のなかなか嫉妬深い気質を前から察して居るから、もしもこの様な疑いが露ほどでも品子の心に根を残すようなことが有っては、後々どのようなもつれを来すかも知れないと思い、それとは無しに、なおも自分と河田夫人はまだ一度さえ会ったこと無いことを明らかにし、その上に、出来るだけ品子の機嫌を取った。

 品子は機嫌を取られたうれしさに、十分河田夫人に親切を尽くしてやると言う気になったが、この親切が河田夫人の身に取って、果たして有り難いか有り難くないかは、別問題だ。後々で無くては分からない。

 翌朝品子は書斎に入り、本箱を開いて、河田夫人に贈るべき書籍をあれこれと選り始めた。その本箱の中に、綺麗に綴じたワーズワースの詩集が一冊有る。何気なく是を開いて見ると、表紙裏に
 「夫瀬水冽より、最愛の妻澄子へ、第二十回の誕生日の記念として贈る。」
と書いてある。さては夫が先妻を喜ばせるためにこの本を贈ったのか。

 第二十回の誕生日と言えば、澄子が二十歳に成った年で、結婚してから二年余りの時であったのだ。澄子の事と言えば、何に付けても嫉妬の念を先に立てる普段の気質として、品子はほとんど顔色を変えた。

 「この様な書籍はこの家に置くべきではない。」
と言い。外の何種類かの書籍と一緒に河田夫人の所に贈ってしまった。もし、当たり前の人情を備えた女なら、この様な書籍は、義理としても、尚更大事に保存するところであるのに、これらの書籍が、新調の書棚と共に学校に届いて、河田夫人の居間とする一室に飾り付けられてわずか後に、河田夫人は田所夫人及び校長春田博士に送られてここへ来た。

 そもそも河田夫人の居間というのは、学校の校内に別に小さい綺麗な家が建っていて、手伝い女が一人が付き添い、ここで寝起きもでき、煮炊きもでき、いわば一種の官宅と称すべき所である。

 夫人はこの小綺麗な住まいの様子を見て、ひどく喜んだけれど、何だか心に落ち着か無いところがあって、妙に心配の様子が見える。
 博士は是を見て、多分瀬水子爵夫人の恩に感じての事だろうと思い、

 「イヤ、実にご覧の通り、子爵夫人の注意は何から何まで好く行き届いて居ますから、お会いの際はしかるべくお礼をおっしゃるのが宜(よろ)しいかと思います。」
 当然の言葉だが、河田夫人の身は聞くに耐えないように震えた。けれど、強いてその様子を隠して、

 「ハイそういたします。」
とやっと聞き取れる小さい声で答えた。
 田所夫人も言葉を添えて、
 「子爵夫人から今し方、書籍や花などが届いたそうです。貴方は何もかも子爵夫人品子の方におすがり申していれば、少しも不安なことはありません。」

 河田夫人は「ハイ」と答えて垂れた首をしばし上げることさえ出来なかった。有り難涙にくれているように思われる。
 やがて小女が汲んで出す茶に、三人共口を潤したが、河田夫人は、何度か言い出そうとして、異様に言い出しかねた末、やっと口を開き、

 「瀬水家には子供は沢山お有りですか。」
と聞いた。少しも怪しむべき問ではない。恩人の家の様子をわきまえて置くのは当然のみか必要なことであるのだ。博士は少しも怪しまず、

 「イイエ、先の奥方に出来た男の子がただ一人お有りです。」
 夫人「きっとその子が後継ぎでしょうね。」
 博士「勿論です、特に容貌も心ばえも立派な子で、末頼もしく思われます。」

 先妻の子が後継ぎであるか無いかは非常に河田夫人の気に掛かっていたことらしい。勿論、後継ぎと聞き、かつは末頼もしい立派な少年と聞いて、余ほど嬉しく感じたと見え、青い顔にいくらか血の色が浮かんできた。けれど、まだなかなか聞き足りない様子で、又も聞き難いように、

 「して、その子の生みの母御と申しますのはーーー」
 聞く言葉に妙に熱心さが現れている。
 博士「ハイ生みの母親はお亡くなりに成ったのです。私は不幸にして深くご懇意を結ぶ機会を得ませんでしたが、両三度お目には掛かりましたが、今の良彦と言うその子の目元、口元など余ほど好くその方に似ている様に思われます。」
と言いながら博士は、じっと河田夫人の顔を見た。



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