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黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

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野の花(後篇)

野の花

ミセス・トーマス・ハーデー著  黒岩涙香 訳   トシ 口語訳

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    六十八 「品子の方が明日ここへ」

 博士は、じっと河田夫人の顔を見たけれど、別に何事をも、思い出すことは出来なかったと見える。やがて又口を開き、
 「過日も私は子爵に会い、最早や教育のために良彦さんを手元から、離さなければ成らない時が来ると、申し上げましたが、何分一人息子のため、子爵は手放すことが出来ないで居るご様子に見えました。」

 河田夫人は、博士が我が顔から、何事も思い出さなかったことに、ほっと安心した様子で、
 「そう大事に育てては、きっといたずらっ子でお有りでしょう。」
 博士;「そうです。健康な子供は、多少どうしてもいたずらっ子ですが、しかし、そのお子はごくごく質の良い方ですから、外の子供のように、素行不良などと言うことは有りません。それに今の子爵夫人品子の方が、なかなか厳格な人で、お有りなされますから。」

 継子に対する継母の厳格ということは、余り有り難いものではない。河田夫人はこの言葉で、その辺の様子を察したのか、少し気遣わしいように、
 「どうか、私も一度その子を見たいと思います。」

 田所夫人が言葉を添えて、
 「この学校に居れば、何度でも見ることが出来るでしょう。前任の柳川夫人が、ここを預かって居るときは、時々夫人の所に遊びに来て、なかなか悪戯(おいた)をされました。」
と言いながら、庭の花壇に、一個の壊れた植木鉢の有るのを見て、

 「あれ、あの鉢も良彦さんが壊したのでしょう。クリケットのボールを投げ付けて、おお、そのボールが今だに台の下に転がっていますよ。非常に良彦さんが大事にしていたボールですから、取って置いて、今度お出での時、差し上げればさぞお喜びでしょう。」

 河田夫人は何気ない風に聞いていたが、決して何気なく聞いていたのではない。三人の会話は随分長く続いた。校長博士は、この上の長話は、作法にも背くと思ったか、静かに体を起こしながら、

 「イヤ河田夫人、学校の時間は午前九時から午後の四時までです。そのほかの時間は、総て貴方のご自由ですから、お慣れなされば、それほどは苦しくはないでしょう。」
 河田夫人;「どういたしまして。慣れなくても、苦しいなどと言うことが、何で御座いましょう。」

 更に教室の事などについて、二、三の注意を残して、博士は立ち去った。田所夫人も続いて帰って行った。後に残った河田夫人は、自分ただ一人になったと見るやいなや、あたかも、待ちかねていたように、庭に降り、今聞いた壊れた鉢のの所に行き、その台の下から、彩色した一個のボールを拾いだした。そして愛児でも抱くようにそのボール自分の胸に当て、

 「おお、是があの子の持っていたボールだとは、ーーー何だかもうあの子に会ったような気がする。ーーー良彦よ、良彦よ」
と言い、益々抱きしめるようにするのは、一種の男女の恋に迷う感情か、はたまた恩愛の耐え難いところがあって、我を忘れた為だろうか。やがて、この夫人は涙にむせんで、

 「おお、貴方は生みの母に見捨てられ、継母の手に育てられて、きっと辛いことだろう。堪忍しておくれ良彦。母を死んだ者と思えば、別に恨みもしないだろうが、生きて今まで隠れていたと知れば、不実な母だと恨むであろう。

 けれど、不実ではない。不実ではない。家を出るとき、貴方を連れてと思ったけれど、折角子爵家の長男と、天の恵みを受けて生まれた子を連れ去って、名もない平民の身分とするのは、母として、我が子の生まれながらの幸いを、奪うようなものと、自分に言い聞かせて、貴方を置いて去ったのだ。

 その後は夜一夜も貴方を忘れる事が出来ないからこそ、辛い思いで又この様に、この土地に迷って来た。この後にしても、母よ子よと、名乗り合う時は無いだろうが、ここへ来るまでの母の思いを察しておくれ。」
と言い、果ては芝生の上に在る椅子に身を折って泣き沈んだ。

 もし、この様子を、人に見られたらどうしようとの心配が、このような間にも心から離れない。そのためやっと泣きやんだが、実は涙の尽きた後だった。

 泣きやんで少し長い間、青い顔をして椅子の上に、ただ茫然としていたが、実は泣いたのが好かったのだ。どこかで泣かなければ、どうせ出さずには済まない涙である。ここで、事の初めに、誰も知らない間に、泣いて置いた方が、後の辛抱がしやすいだろう。

 この後は辛いことばかりなので、もしも泣いて成らない場で、耐えられずに、泣くようなことがあっては、どんな間違いを起こすかも知れない。そのうちに、ようやく心を取り直して立ち上がった。
今度は少し確かそうに見える決心が、顔の面に現れている。

 そして、この翌日に及び、いよいよ学校を開いたが、通い来る多くの女生徒は、直ぐにこの夫人に馴染(なじ)んだ。二日目の午後、教室を閉めようとする時刻に、瀬水家から使いが来た。
 使いは品子の方から、河田夫人に贈る果物を持って来たもので、その口上は、
 「明日、品子の方がこの学校に教室を見に来る。」
との内容だった。

 勿論、覚悟は決めてある河田夫人であるが、
 「こう早いとは思っていなかった。この辛い対面に、この身が耐えることが出来るだろうか。」
と深く思い気づかう心に、ただ胸だけを騒がせた。



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