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野の花(後篇)

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ミセス・トーマス・ハーデー著  黒岩涙香 訳   トシ 口語訳

野の花

    七十四 「明らかに嘘を答えた」

 品子の後に従って行く間も、河田夫人はただ自分の気を引き立てよう、引き立てようと努力した。
 品子にろくろく口も利けない有様では、ついに疑われ、悟られる本ともなる。こうも気が弱くては仕方がない。

 そのうちに学校の庭も過ぎ、河田夫人の居間の前に着いた。品子は自分の家のように、少しの気兼ねもなく、先に立って上がり、先に腰を下ろし、
 「サア、河田夫人、お掛けなさい。」
と言って一つの椅子を指し示した。

 どこまでも保護者と言う風である。そして、やがて河田夫人が腰を下ろすのを待ち、
 「貴方は体が余りお丈夫でないように見えますが、別に病気では無いのでしょうね。そして、この住まいがお気に叶(かな)いましたか。」

 聞かれて河田夫人はようやく、虫の音のような細い声で返事をした。
 「別に病気はありません。この住まいは特に素晴らしいです。」これが初めての言葉で、一語、一語、ほとんど血を吐く思いである。

 品子;「なるべくこの学校を十分なものにしたいのが、私や夫冽の願いですから、もし、ここをこう改良すればと思うところがあれば、直ぐにお知らせを願います。この住まいなども、貴方の希望に満たない所は、どのようにも直させますから、どうぞご遠慮なく」

 有難過ぎるほどの仰せではあるが、品子の口からこの親切を聞くのは実につらい。瀬水冽の妻というこの身の位置を奪い、子爵夫人と言う私の尊称を奪い、そして私が受けるべき夫の愛をも奪っている。

 この女がかえって私に恩を着せ、私はそれに向かって礼を言わなければならない。充分覚悟はしているところだが、どうしてもその礼が、口から出ない。後々に及び、少し慣れて来たなら、平気で応答ができるだろうが、今は努力すればするほど、ますます難しい。

 幸い品子は返事を待たずに、河田夫人の頭巾を見ながら、また次の問いを発した。
 「貴方はひどい不幸にお会いなさったと見えます。」
 その意味は夫を失ったかと言うことである。もちろん、ひどいひどい不幸に会ったのだ。

 「ハイ、夫をも、一人の子をも失いました。」
 これは、少し癪にさわるという気があるため、案外はっきりと答えることが出来た。けれど、直ぐに後悔した。癪に障(さわ)るなどと言う思いは、毛頭起こしてはならないと。

 品子;「オオ、それは大変なご不幸です。しかし、そのような深い悲しみの後では、このような静かなところで、生徒などに気を紛らわせるのが、かえって、良いかもしれません。」

 河田夫人は又も返事が無い。
 品子;「貴方はこの土地は初めてですか。」
 初めてとも初めてでないとも言うことができない。ただ、あいまいに、
 「ハイ、今までセプトンに住んでいました。」

 品子;「もう当分はここを全くの我が家と思い、何事もお心置きの無いようにしてください。屋敷には花や果物など沢山有りますから、時々寄越しましょう。したが、貴方は読み物はお好きですか。」

 夫人;「ハイ、本を読む外には何の楽しみも有りません。」
 品子;「先日、少しばかりの本を詰めて書棚を一つ寄越しましたが、もう、ご覧になりましたか。」
 夫人;「まだ中は良く見てはおりませんが、何から何までのお心付けは、本当に有難うございます。」

 初めて礼の言葉が吐けたけれど、つらい。何時までもこのように対面していると辛いので、この言葉を機に立ち上がり、あの書棚の前に行った。

 品子はこれらの様子を見て、
 「なるほど、大人しい女だけれど、少し人付き合いの悪いところが有る。」
とつぶやいた、

 澄子、イヤ、河田夫人は書棚の中を見る中に、目に留まった一書が有る。それは、かのワーズ・ワースの詩歌集である。オヤと思って我知らずその一冊を抜き出した。

 品子は座のままで振り向いて、そうと見て、
 「貴方は詩歌がお好きですか。」
と聞いた。けれど、河田夫人は聞こえない様子でその本の表紙を開いて見た。中には、見間違えるはずも無い、夫冽の手蹟で、第二十回の誕生日に私に贈る旨を記してある。

 文字に人を殺すだけの力が無いのが実に幸いだ。もしあったなら、河田夫人はこの時ここで死んだかも知れない。
 全くこの本は私のために夫冽が、特別に製本させて、瀬水家の書斎に収めたものである。

 私が死んだ者となった以上は、この上も無い形見であるのだから、仮初(かりそめ)にも、夫冽にとっても、昔私を愛したことを、露ほどにも覚えているのなら、この本くらいは大切に保存してくれる筈である。

 よしや、大切にしないまでも、その家にしまって置き、他の本のように、外に出さないくらいの注意はしそうなものである。それを、何か不用の本と一諸にその家から払い出すとは、余りと言えば、意地悪であると、一時このような思いが込み上げたが、

 しかし、ものの間違いと言うことは誰にもある。もしや、間違いではあるまいかと思い直し、品子の方に向かい、
 「オヤ、この本は何かの間違いでこの書棚に入っているのではないでしょうか。ご家族中の何方かのお品のように見えますが。」
と言って、表紙裏を開けて見せた。

 品子は平気で、
 「イイエ、間違いではありません。冽が自分で選り分けて、ほかの本と一緒にこのようなものは不用だからと言って、この書棚に詰めさせました。」
と明らかに嘘を答えた。澄子の心中はどのようであろう。



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