nonohana78
野の花(後篇)
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ミセス・トーマス・ハーデー著 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
野の花
七十八 「椅子からすべり落るように」
もし、良彦が無言で居たなら、河田夫人は何時までもうっとりと、見とれていたかもしれない。これが我が子の良彦か、我が子がここまで成長したか、―――この後は如何に立派な男になることだろうと、夫人の心はただ良彦の姿で満ち、良彦の一挙一動から我が眼(まなこ)を引き離すことが出来ない。
やがて良彦は舌鼓(したつづみ)して、
「アア、久しぶりのせいか、この葡萄は非常においしい。」
夫人はただ夢心で、この言葉に釣り込まれ、その後について、
「アア、久しぶりのせいでしょうか。」
と良彦の言った通りに繰り返した。
自分では、ほとんど自分が何を言っていることやら、気が付かないほどらしい。良彦は「久しぶり」と言う一語を、夫人に問い返されたと思った様子で、
「ハイ、家には沢山有りますけれど、子爵夫人が、子供と言うものは、昔のスパルタ国の少年のように厳格に育て、うまいものなど食べさせないほうが良いと言いますから、僕は家では食べません。」
子爵夫人の名を聞いて、河田夫人はひどく驚き、気が付いて、心に留めてこの言葉を聞いた。アア、品子がこうまでも、私が生んだこの良彦に厳格なのだろうか。
厳格には色々ある。愛より出る厳格もあり、憎しみから出る厳格もある。けれど、河田夫人の心には、その区別を問うだけの余裕が無い。
ただ、
「私がそばに居て育てたなら」
との一念が何よりも先に湧いて起こった。といって自らそばに居て育てることが出来ないのみか、打ち明けて親子の名乗りさえ出来ないのだ。
今まで、少しの間は良彦の姿に見とれ、何もかも忘れたようになっていたけれど、ここに至って又切に、我が子よ、我が子よと言う言葉が胸先まで込み上げ、ようやく、
「エ、子爵夫人とは。」
と問う言葉に紛らわせた。
良彦;「ハイ、子爵夫人とは僕のお父さんの後妻です。僕の阿母(おっか)さんではありません。」
河田夫人は我知らず頭を突き出し、
「エ、阿母(おっか)さんではない。」
良彦;「ハイ、僕の阿母(おっか)さんはイタリアで、汽車の衝突のため死んだのです。美しい阿母(おっか)さんでしたよ。」
夫人は何やら口の中で返事のような言葉をつぶやいたけれど、自分でなんと言ったか知らない。
良彦は断言するように、
「ハイ、本当に美しい阿母(おっか)さんで、絵に描いた天使のような顔でした。僕はよくおぼえている。その頃は毎夜のように、その阿母(おっか)さんの夢を見ました。
今だって時々は夢に見るんだもの、何時まで経ったって忘れはしないや。本当に僕を可愛がってくれて、そばへ走って行けば、直ぐ抱き上げてくれたり、この頬にキスをしてくれたりした。
阿母(おっか)さんが無くなってからは、誰だってそのようにはしてくれはしない。本当に阿母(おっか)さんが、モッと長く生きていてくれたら良かったと思いますよ。」
無邪気な物語ではあるが、良彦自身もいくらか悲しくなったのか、後のほうになると眼の底に涙のようなものが光って見えた。オオ、その母はここに居る。オオ、その母はここに居ると言うことの出来ない辛さは、以前に増して河田夫人の身には耐え難たかった。
良彦はなおも話しを続け、
「誰だって阿母(おっか)さんのように、親切にしてくれることは出来ないということは、その後、お父さんから聞きましたが、
僕の阿母(おっか)さんは、僕のことばかり心配して。何事でも納得が行くように、僕に教え、そして、僕を後々立派な人にしたいと言っていたそうです。
僕もそう思っています。きっと立派な人になりますよ。阿母(おっか)さんは、死んでも天国にいるのだから、僕を見ているのに違いない。僕が立派な人になれば喜んでくれるだろう。ネエ、河田夫人、本当の阿母(おっか)さんほど良いものはない。僕だって阿母(おっか)さんを喜ばして上げたい。」
河田夫人はここまで聞いて、たちまち椅子から滑り落ちるように、良彦の足元に身を伏せて、よよと泣き始めた。泣かずに耐(こら)えていることが出来なくなったのだ。
顔は見えないけれど、その背が、咽(むせ)ぶ一声一声に波のように起伏している。良彦は驚いた。けれど、何が何だか分からない。
「河田夫人、どうしたんですか。何か僕が言うことが悪かったんですか。」
ひどく心配そうに聞いた。