nonohana81
野の花(後篇)
ミセス・トーマス・ハーデー著 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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ミセス・トーマス・ハーデー著 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
野の花
八十一 「形は変えても」
勿論、この一紳士は瀬水冽である。妻と知らず河田夫人を訪ねて来て、寝ていると知らずに、寝姿に近づいたのだ。
「オヤ、誰も居ないのか。」
と言う口の下に寝姿を認めた。もし、無作法な男ならば、他が知らないのに乗じて、つくづくとその顔を見たかもしれない。或いはわざと物音をさせて、その眠りを破ったかも知れない。
けれど、冽はその様な男ではない。身に多少の過ちはあるけれど、当世に多くは得がたい正真正銘な紳士である。特に日常の振る舞い、婦人に対する礼儀作法などは、少しも非難するところが無い。
初めは河田夫人の姿を見て、眠っているとも知らずに椅子の前まで近づいたが、近づいて直ぐ眠っていることを知った、そして、なるほど昔は美人であったろうとまでは感じたけれど、我妻澄子とは気が付かない。
勿論気が付くはずはない。死んだ澄子が生き返ってこの世に居るべき道理が無いのだから。ただしかし、いくらかの哀れみは催した。この暑さに日々面倒な子供の教育を引き受けて、さぞかし疲れることだろう。
疲れて知らず知らず眠ったものを、驚かせるのは罪なことだと、このように思って、何も用事が有って来た訳ではなく、ただ通りかかったついでに、立ち寄ったまでだから、又来ようと決心した。が、どう言う拍子か、持っているステッキが椅子の足に触った。
単に触っただけだったが、河田夫人は驚いて眼を覚ました。目が覚めたとき、枕元に男が立っているのを見ては、どのような婦人でも、驚かずには居られない。
特に眠るつもりで無く眠っていた時にだから、尚更驚いた。まだそれだけでなく、男が立って居ると知った時に、直ぐ我が夫であると知った。
前もって、会わねばならないものと覚悟してさえ、その覚悟が定まらず、いっそ逃げ出そうかとまで思っている夫人だから、この時の驚きは、真に例えようも無い。全く心が裂けるような叫び声を発した。
そして、夫人は立ったまま退くことも進むことも出来なかった。全く身動きの力を失ったのだ。この叫びとこの様子に冽も驚いた。ただ、男だけに、冽のほうは別に慌てはしない。むしろ気の毒に思い、なるたけ声を優しくして、
「イヤ、驚かせ申して済みませんが、全くその様なつもりでは無く、静かに立ち去ろうとして、ツイ物音をさせてしまいました。私はこの学校の幸運を祈っている者の一人で、瀬水冽と言う者です。失礼の段は幾重にもお詫びします。」
言ううちに、さてはまだ私を、昔の澄子とは見て取ることは出来なかったと見えるとの、思いだけが河田夫人の胸に出て来た。冽はなるたけ落ち着くべき時間を与えようとして、ゆっくりと言葉を続け、
「今日はこの門前を通りかかったので、もしや貴方に、ご不自由なところが有れば伺いたいと、それだけで立ち寄りました。」
これだけ言われれば、何とか礼らしい一語を述べなければならない。述べているらしく見えるが、冽の耳には少しも聞こえない。けれど、冽は聞こえた振りをして、当たり障(さわ)りが無く調子を合わせ、
「このような辺鄙な土地ですので、さぞかしさびしくお思いでしょう。折々はどうか瀬水城にもお出かけください。家内も深く満足に思うでしょう。」
河田夫人は確かに何事か言っている。冽は聞き取ろうと全く耳を傾けた。何だか親切を謝しているらしい。子爵夫人の注意を有り難いと言っているらしい。そして、何も不自由は無いと答えているらしい。けれど、そのうちに力が尽きた様に、椅子の上に沈みこんだ。
全くこの対面に耐えられないのだ。どうしよう、何と言おうなどの、恐れや当惑が固まっている。
冽;「貴方はお体が優れないと見えます。不幸が打ち続いた後とやらお聞きしましたが、その辺の悲しみがまだ消えないためでしょう。自愛なされなければいけません。」
河田夫人は全く血の色を失った唇から、
「ハイ、その悲しみは生涯消えません。」
と異様に答えた。これが初めて冽が聞き取ることが出来た声である。
最早、河田夫人の心には冽に対する愛と言う情は残っていない。いくらか残っていたにしても、我が記憶さえ、その家から払い出されると知ったときに全く消えて、今は微塵(みじん)も残っていないとさえ、自分では思っている。
けれど、学者の言う動力不滅と同じことで、愛情も不滅である。動力が熱に変じるのと同じく、愛情も恨みに変じる。消えるのではなく、形を変えるのだ。形は変わっても、その力はそれからそれへと伝わって業をする。
夫人の心ではもう愛すべき人ではないと、こうまで思うが、わざわざそう思うことが矢張り愛だ。自分の身が見破られることこそ恐ろしいが、最早先ず我が妻と見破られることが無い上は、その外に何も恐れるところは無いと、このように自分の心を引き立てている。
けれど、又、その見破ってくれないのが何とやら恨めしい。自分の妻の顔をいくら変わっているにせよ、又変えているにもせよ、五年や七年で早や見破ることが出来なくなるとは余りに薄情だと、このような気も湧いて出る。
こうなると又強いところが出来る。この薄情な男はどのような顔をしているか、私が亡くなって、嬉しいと思っているか知らんと、眼を上げて冽の顔を見た。
冽はそうとも知らずに後の言葉を考えながら、夫人の読みかけた彼の詩歌集に眼を注いでいる。
実に冽の顔は昔とは違っている。妻を失って七年来の悲しみは、夫に別れた悲しみが、河田夫人の顔に痕を止めているのに劣らない。その頃から見るとほとんど、衰え果てたと言っても好い。
河田夫人は見るに従い、決して冽が私と分かれて心配せずに居たのではないと言うことを見て取った。昔は希望に輝いていたその眼が、今はこの世の望みを断ったように曇っている。
頬の辺にも口元にも、慰めようの無い悲しい筋が刻まれている。まだ四十を過ぎない男盛りの男では有るけれど、不幸のために老人の堺に入りかけている。これを見ると無限の哀れさが、深く深く夫人の胸の底から、涙と共に込み上げた。