nonohana85
野の花(後篇)
トーマス・ハーデー著 黒岩涙香 訳 トシ口語訳
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ミセス・トーマス・ハーデー著 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
野の花
八十五 「活劇の幕が再び開いた」
冽と品子の留守中は、先ず良彦が一家の主とも言うべき者だ。彼は誰の許しも得ずに、毎日、外に出ることが出来る。出るたびに必ず河田夫人のところに来る。
初め冽は、別荘に立つ時、この子を連れて行こうかと言った、けれど、品子が同意しなかった。外の旅とは違い、品子の健康のために行くのだから、品子が同意しない者を連れて行くわけには行かず、遂に良彦だけを残したのだ。
残されて良彦は、もしこの河田夫人と言う人が居なかったなら、非常に物寂しく感ずるところであったろうが、夫人が居るため別にその残されたのを苦にもしなかった。
何の故か知らないが、良彦が河田夫人を慕うのは一方ではない。初めはそれほどにも見えなかったが、来るたび毎に親しみが増し、果ては我が家よりも夫人の家を我が家らしく感じるほどになった。
イヤ、何ゆえでも無い。母子と言う自然の血が引き寄せるのだ。その上、又、夫人が可愛いと思う一心から何事にも気を付けるため、自然と当たりが柔らかで、居心地好く感じるのだ。
家の老臣中には、余に良彦が河田夫人のところに行過ぎるように思い、眉をひそめた者も有った。そのため同役と評議もした、けれど、この頃既に河田夫人の徳望は次第に広がって、このような老臣の耳にまで聞こえていたので、このような婦人に親しめば、良き薫陶を受けこそすれ、少しも心配しなければならないような所はないと評議が決まった。
このような次第なので、最早学校の時間が終わって夫人の身が暇になったと思う頃には良彦が必ず来る。夫人もまた、必ず来るものと思って果物などを取っておくほどになった。
あのクリスマスに、貧民へ品子の恵みを取り次いだときなども、良彦が河田夫人に従って歩み、品を分けたり、何かする手助けをした。夫人に取っては、このように良彦がしてくれるのが、悲しい中のせめてもの心休めである。
もし、良彦が来ないようになるときでもあったら、どうして今の辛い位置に辛抱できるだろうと、時々自分でも心配になることがあり、そのたびに、今まで数年の間、どうして良彦に会わずににいて我慢が出来たのだろうと、不思議に思った。
或るとき、何の話から出たのだか、良彦は夫人に向かい、
「僕はもし思い病気にでもなったら、貴方に看病してもらいたいですよ。」
と言った。夫人は母の情として早や驚き、
「病気など不吉なことは言わないものです。」
と打ち消した。
良彦の病気と言うことは、ただ言葉だけでも心配なのだ。
良彦;「僕は直ぐにお父さんにそう言って、ここに迎いを寄越します。貴方はそのとき来てくれますか。くれますよねえ。」
真面目に問う様子は、他日病気の時が来ると予感しているようにも見える。
夫人;「だって、貴方は病気に成りはしないでは有りませんか。その様なことは言わないものです。」
良彦;「でもまあ、来てくれると言って置いて下さい。それを聞いて置けば僕は心強いから。」
夫人;「それは、貴方が、本当に病気になれば行かないでどうしましょう。何事を置いても行きますよ。」
この言葉が約束となって、他日実際に行われることになる時が有ろうとは思わなかった。
けれど、この日、良彦が去った後まで、妙にこのことが夫人の気になった。それに又、本来ならば、我が家として、自分がその女主人として何事も指図すべき家へ、名も無い看護婦として、その日その日の雇い人となって、入り込むのかと思うと、これも何だか気持ちに障(さわ)った。
この後間もなく瀬水城に、冽と品子が帰って来た。これで先ず活劇の幕が再び開いたようなものである。河田夫人は夫婦の帰った噂を生徒から聞いて、それではもう良彦も今までのように、そう度々は来ることが出来なくなるだろうと、いささか恨めしいように感じていたが、日の暮れになると、良彦が息もせわしく入って来た。
彼は夫人の顔を見るがいなや、
「ヤ、夫人、夫人、僕は嬉しくてたまらないことがあります。」
夫人;「オオ、嬉しいことなら兎に角も結構です。私はまた貴方の気ぜわしい様子を見て、もしや、悪いことではないかと、びっくりしました。」
と言いながら胸をなでた。
良彦は顔を輝かせて、
「本当に嬉しいではないですか。夫人、いつでも家に来て見てください。僕には弟が出来たのです。」
弟が出来た、この一語に夫人は不意の打撃にでも会ったようにハッと思った。そしてその美しい顔に、血の色が通ったり、引いたりした。
「何とおっしゃる。貴方に弟とは」
問う息も切なそうである。