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野の花(後篇)

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ミセス・トーマス・ハーデー著  黒岩涙香 訳   トシ 口語訳

野の花

        八十九 「非常の決心」

 そうで無くてさえ、瀬水家は来客が多いのに、この品彦が生まれて以来、尚更多い。わざわざ品彦を拝んで子爵夫人の御心に覚えめでたくなるように来るのだ。

 このような人達は、話が尽きると多くはあの学校のことを話す。勿論、外にこれと言う話の無い土地だから、自然と話がその辺に移って行くのだ。そして、学校の話の中には大抵河田夫人の噂が出る。
 「なんともしとやかだ」
 「なんとも柔和だ」
 「よく行き届く」
 「生徒に親切だ」
 「どうしてアノ様な適任の方が得られたのだろう。」
などの褒め言葉がその度に品子の耳に入る。

 もし、この褒められる河田夫人がその実澄子だと分かったらどうだろう。子爵夫人品子はどれほど腹を立てるか知れない。よしんば、澄子と分からないにしても、もし、この学校が自分の物で無く、河田夫人が自分の使用人で無かったなら、品子は我が領地の中に、ここまで褒められる女があるのを憎く思い、日頃の嫉妬深い心で、必ず非常な不興を現すに違いない。

 幸いに自分の学校、自分の使用人であるため、これも自慢の一つになる。河田夫人が褒められるのは、いわば自分が褒められるようなものなので、
 「イエエ、私は人を雇うのに大抵は、一目見て適任か不適任かを知ることが出来ますよ。」
などと自分の方から客の言葉の足りないところを補足してまで鼻を高める。その実自分が見てから雇い入れた者では無いのに。

 その様な訳だから、品子は心の中では河田夫人にも、我が子品彦を拝ませたい。多くの人に褒められる人に向かって、自慢をするのは、又格別に自慢のしがいがあると見える。その内にはきっと河田夫人の方から伺いに来るだろうと、心待ちに待ったけれど、全然来る様子が無い

 どうも物足りない心地がして仕方が無い。ついには待ちきれなくなったと見え、良彦を呼んで、
 「河田夫人のところに行き、品彦を見に来るように言って下さい。」
と命じた。いつもは良彦を、自分の部屋にあまり入れないようにしているばかりか、特に品彦が出来てからは、なるたけ良彦を遠ざけているのに、わざわざ呼んで言いつけるとは中々熱心だ。

 この時、夫冽もそばに居たが、別に異存は言わない。ただ、心の中では、女と言うものは、こうも自分の子を人に見せたいものなのかと思い、微笑んだだけだ。ナニ、女が皆こう自慢したがり屋ばかりなのではない。品子だけが特別なのだ。

 良彦は、自分も前から弟を河田夫人に見せたいと思っているだけでなく、よしんば、弟が無いにしても、一度は我が家に連れて来たいと、子供心に思って居た事なので、この言い付けに勇んで夫人のところに行き、何はさておいても、この子爵夫人の意を夫人に伝えた。夫人にとっては実に辛い招待である。

 先ごろ品子に子が出来たと聞いた時でさえ、自分の身が絶えてしまうほどに感じたのに、どうして平気でその子を見に行き、知らない顔で喜びなどを述べることが出来るだろう。何とかして断らなければならないと、色々口実を考えたが、中々良彦が承知しない。

 その口実は皆言い出さないうちに消えてしまう。
 「エ、夫人、何をそんなに考えるのです。貴方は子供が好きなのに、なぜ喜んで僕の弟を見に行きません。」
 夫人;「私は子供を見るとツイ涙が出ますので、お喜びの中にはかえって失礼です。」

 良彦;「その様なことを言って、行かないほうがどれだけ失礼か分かりません。子爵夫人は品彦を大変自慢していますから、品彦の顔を見たいと思わない人があれば、どれ程その人を恨むかも知れません。こうしてわざわざ僕を寄越したのに、それを貴方が行かないと言えば、僕がこの後は何の役にもたたない者のように思われますよ。」

 子供ながらも大人のように理屈を言った。全くその通りである。夫人はしかし、自分が品子に恨まれるのはあえて嫌いはしない。既に品子の恨みのために、家をさえ、夫をさえ、身分をさえ失った程だから、この上に恨まれようは無いのだ。

 けれど、我が子良彦が、これのために後々まで、品子から何の役にも立たないように言われるのは実に辛い。良彦のためには火水も潜(くぐ)りたいほどに思う身なので、辛いけれども非常の決心を呼び起こした。

 けれど、まだ無言である。「行きましょう。」との一語が、渋って口に出ない。良彦は言葉を継いで、
 「それにね、僕は貴方に見せたい物があるの、先だって僕が学校で優等賞を取った褒美に、お父さんが僕に書斎を作ってくれた。そこが僕の居間になっているの、中の飾りつけや額なども立派ですよ。僕と一緒に行ってそれも見てください。サ、行きましょう夫人。貴方が見てくれなければアノような書斎も本当につまらないです。」

 少し失望の色も見える。前の言葉にはまだ抵抗することが出来たかも知れないが、今度の言葉には抵抗することが出来ない。母と知らずに、私をこうまで頼りにし、父から与えられた書斎さえ、私に見せなければつまらないとまで思ういじらしさに、非常に深い愛の心が沸き返るように込み上げ、
 「では行きましょう。」
と言い切った。

 良彦は喜んで、「本当に行ってくれますか。」
 夫人;「ハイ」
 良彦;「僕と一緒に、今すぐに」
 夫人:「ハイ、今からすぐ行きましょう。」

 いよいよ夫人は、何年目だか、我が家と言われない我が家の敷居を、他人として跨(また)ぐ事になった。時世時節とは誰の言葉か妙なものだ。

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