巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

nyoyasha15

如夜叉(にょやしゃ)

ボアゴベ著 黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2012. 4.21

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如夜叉    涙香小子訳

                        第十五回 

 長々生が栗川巡査に逢(あ)おうと約束した馬尾蔵の店と言うのは門苫取(モントマトル)の公園から遠くないロスチウ街の中程にあり、下流社会には一般に知られた老舗(しにせ)だとか。今夜は十一時過ぎから公園で仮装舞踏の催しがある筈なので、店も特別に繁盛するだろうとの見込みで掃除万端しっかり行き届いていた。だが夜は十時前後なので未だ入り来る客もない。唯その隅の方に当たり先程から飲みかつ話して、今は興もやや尽きようとしている三人一組の客を見る。

 この客即ち長々生と栗川で、一人は主人馬尾蔵である。馬尾蔵は長々生と親密な間柄で、栗川をも好く知っているため、客の来ないうちに自分も客の群れに加わり、自ら我が店の飲食物の良し悪しを試しているのだ。栗川も馬尾蔵も直ぐに話しに飽きた様子だが、一人長々生のみは未だ足らず、頻りに舌を動かせり。
 「エ主人、その『まあ坊』と云うのがこの頃又帰って居るに違ないがお前未だそれを知らないか。」

 馬尾蔵も酒店の主人とは思えない無愛想な言葉で、
 「帰って来れば俺の店に来ぬ筈は無い」
 (長)「それでもお前が見忘れて居るのだろう」
 (馬)「ナニ、お前の顔を見忘れても、『まあ坊』の顔は見忘れない。この店のためにはお前よりも『まあ坊』の方がよっぽど大事の客だ。何時でも五人十人の手下を連れて来て、金を湯水のように使ったから」

 (長)「ではその手下者に聞けば帰ったか帰らないか分かるだろう」 
 (馬)「ナニ、手下と言っても唯『まあ坊』の身の上を知っている訳ではなし、夫(それ)に又『まあ坊』も馬鹿でないから、自分の居所や行く先を手下には決して知らさない様だった。」
 (長)「では手下と言うのも名ばかりだな」
 (馬)「そうでもない。『まあ坊』の為には何のような事でも喜んでしていたから。尤(もっと)も金のためでは有るけれど。」

 (長)「シテ見ると『まあ坊』とは何者だろう。貧乏人の娘では無論ないし、それかと云って身分のある夫人がまさかその様な手下を連れ毎晩公園団地踊っている事は出来ない筈だが」
 (馬)「ナニこの巴里にはその様な女は随分あるさ。身分はなくても容貌が好いため密かに金満家の保護を受け我儘勝手な真似をしている女が。」

 (長)「だが『まあ坊』はどの様な言葉を使った」
 (馬)「言葉はもう誰に向かっても手前が俺がと言う極々下流社会の言葉であったが」
 (長)「フム、そうすると貴夫人の真似などは出来ないだろうか。」
 (馬)「それは如何(どう)だか。貴夫人の真似などするところを見たことがないから」 

 長々生は我が思惑の充分に当たらないのを見て再び熱心さを加え来た。
 「頬の傷と云うのはうまく隠しただろうなァ」
 (馬)「ナアニうまく隠すと云っても随分大きな傷だから夜だけは何うか斯(こ)うかごまかしたが昼見れば誰の目にも分かったよ。傷のあとが溝のようにズーッと凹んでいたのだもの」

 (長)「でも栗川は容易に分からなかったと云うぜ」
 (馬)「それは栗川の間違いだ。栗川は昼見なかっただろう。」
 栗川は始めて口を開き、
 「そうだな。傍で見たのは夜ばかりで昼は何時も遠くで見たから、何とも俺には請合れない。」
長々生は益々不愉快になり、
 「松子夫人にその様な傷の見えないのは如何言う訳だろう」
と呟き、更に又、

 「だがその手下の者は今でもここへ来るだろうな」
 (馬)「そうさなァ。いずれも碌(ろく)な仕事の無い奴等だから、『まあ坊』が居なくなってからは酒を飲む銭も作れないと見え、ここへは来ないよ」
 (長)「来ればその顔を覚えて居るか」
 (馬)「覚えたのもあり忘れたのもある。イヤ待てよ連中の一人はこの頃ここへ来たよ。そうだ何だか見たような奴だと思ったが何しろ七、八年も見なかったから何(ど)うしても思い出さなかった。アレハ『まあ坊』の子分だった」
と頻りに一人頷くのに、長々生は待ちかねて、

 「『まあ坊』の手下が来たのか」
 (馬)「ウム来た。夫(それ)もこう言う訳さ。空が曇って雨でも降りそうな夜であったが、余り客が無いから俺は店を仕舞おうと思い、表の大戸を閉めに出たところ、向こうの方から息も絶え絶えに走って来た男がある。それが夜の一時頃だぜ。スルとその男は直に俺の店へ飛び込み、余程喉が乾いていたものと見え、直ぐにビールを呉(くれ)というから都合三杯注いで遣ったが、一息に飲み干して出て行った。その男と言うのが恐ろしく鼻の高い男で、鷲の嘴の様に下に曲がりそれで髭茫茫と生え茂っているから、極々人相の悪い野郎さ。誰でも一目見れば生涯忘れぬ顔だから俺も確かに覚えては居たけれど、肝腎何処で見たかという事を忘れていたが、今お前に問われて思い出した。」

 (長)「それが『まあ坊』の手下であったか」
 (馬)「手下よ。そうそう其奴(そやつ)は踊りのある度にその様な面の癖に花嫁の着物を着てさ、天狗ッ鼻で髭茫茫の花嫁だから見物が臍(へそ)を捻(よじ)った。」
 (長)「併し其奴が来たというのは何時だった。」
 (馬)「そうサなァ、幾日だったか確かには覚えていないが何でも一週間ばかり前の夜だった。」
 この言葉に長々は少し勢いを回復し、

 「フム一週間ばかり前の夜で、しかも一時過ぎに息も絶え絶えに走って来た。フム面白いな」
と独り呟き、猶(なお)何事をか考えて、未だ其の顔を上げないうち外からこの店に入り来る独りの客人があった。給仕を呼んで
 「ビールを持って来い」
と言いつつ三人の居る所より遠くないテーブルに腰を卸した。

馬尾蔵は是を見て小声になり、
 「噂をすれば影と言うが実にこの事だ。コレ長々来たよ来たよ」
 長々は顔を上げ、
 「誰が来た。」
 (馬)「今噂をした天狗ッ鼻が」
 長々は喜んで今来た客の方を伺うに、成る程髭茫茫と生え茂り、鼻は高すぎて下に曲がる、俗に云う下瞰鼻(のぞりつはな)だ。しかし花嫁の服は着けず軍人の風を装っていた。

 (長)「アレがまあ坊の手下か。」
 (馬)「そうサ、アノ顔じゃァ忘れっこはあるまい。」
 (長)「成る程ありふれた顔じゃない」
とひそひそ問答する中に壁の時計は十一時を報じた。栗川はコレを聞いて立ち上がり、 
 「オオ僕は十一時までのに約束だからコレで帰ろう」

 (長)「でも君十一時から公園の仮装舞踏へ行く筈じゃないか」
 (栗)「行く事ハ行くが帰って着物を着替えねば。それに十一時半が巡査交代の時間で昨夜から僕が勤情帳を預かっているから一寸其の帳面を警察へ投げ込んで置いて行かねばならない。」
 (長)「では後ほど公園地で会うとしよう。」
 (栗)「好し」
 の言葉を後に残し栗川は立ち去った。

 馬尾蔵も続いて立ち、客が来たら帳面をいい加減にすべからずととの注意からか帳場の方へ退いたので後に長々は唯一人件の天狗ッ鼻の様子を伺って居ると、この時我が後ろの窓のガラスを軽くトントンと叩く者あり。これは疑いも無く外より何者かがこの天狗っ鼻に向かって合図を通じつつある者だ。しかし鼻には聞こえないと見え、彼は猶を落ち着いて杯を傾けるのみ。トントンの声再び聞こえたが鼻は猶之を知らず。長々は振り返りて其の何者なるやを見届けんかと思いたれど、若し『まあ坊』が自分でこの合図をなすものならば我が素顔を見られる事ハ得策では無い。殊に又万が一その『まあ坊』が軽根松子夫人と同人ならば後日のため益々都合が悪い。此の鼻が合図に応じ外に出で行く時を待ち、その後を尾(つけ)行って疑いを晴らさんにはと忽(たちま)ち子の様に思い直し知らぬ振りをして待つ間もなく、三たび目の合図が聞こえたが鼻は猶気が付かない。外なるま『まあ坊』(?)は気を燥(いら)したものと見え、今度は自分で店口に廻り、鼻を目掛けてつかつかと此の店に入って来た。長々は之を見て果たして是が『まあ坊』か、『まあ坊』でないか。松子か松子でないか。読者にして若し此の夫人の誰たるを見破ることができたなら、実に活眼炬(きょ)の如しと云はなければならない。

注;炬眼----かがり火のように、物事を明察する眼

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