nyoyasha31
如夜叉(にょやしゃ)
ボアゴベ著 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
since 2012. 5.7
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如夜叉 涙香小子訳
第三十一回
今日は是日曜日、長々が待ちに待った美術館行きの日である。この前の日曜日は春野耕次郎の身に差し支える事があった為め一週間延ばして置いたのだ。今日こそは黒い上着を被(き)て鶴子と共に晴れの場所に行くかと思えば長々は殆ど嬉しさに気も狂ふばかりだ。
特に彼は水曜日の夜に歌牌(かるた)に勝ち、思わぬ大金を得てからは豚屋の看板を彫(きざ)むのにも及ばず、晴れ着の質受けは彼の身代《財産》の千分の一、二にて足りる。一万フランの金子(かね)は大資本と云う程では無いにしても質素な所帯を持つには充分である。
可なりの店を持ちながらも一万フランの資本などを持たずにしかも安楽に世を送る人は非常に多い。彼も鶴子をさえ承知させ我が妻と定めたならば此の金で生涯の幸福を買う事ができると思えば、あぶく銭も粗末にはしない。
財(たから)勃(さか)《突然に》って入りしかど中々勃(さか)って《急に》出さぬが彼の辛抱強いところなのだ。彼実に一万フランの金に酔い家に帰ってからは何処に置いたら良いか分らない。テーブルの抽斗(ひきだし)には錠が無い。寝台の下は何人に見つけられるも知らず唯の手形や紙幣では有り難みが薄いので光る金貨に勝るものなしと翌日は早朝に両替屋へ行き出来たての金貨と取替えて来た。
或いは両手に掬(すく)い上げて一個(ひとつ)一個指の間を漏れ落ちる音を聞き、
「銀貨では何うもこうは音が澄(さ)えない。」
と賞鑑し或いは悉(ことご)とくポケットに納め
「こう脇腹が膨れては直ぐに掏児(スリ)などに狙われる」
と心配するなど空しく思案するばかりだが、公債証書に買え替えるなどの安心法は夢にも知らず、金が出来れば銀行に預けるとのことは幾度となく聞いて知って居るが、さて大金が出来て見れば如何なる銀行も安心出来ない。いくら銀行でも一万フランは欲しいだろう。欲しがる者に預けては、若し出来心を起こされては。」
と簡単なる論法より、どちらにしても肌身を離さないほど世に確かな事はないと悟って終に皮製の胴巻き注文し、己が腰に巻き付けた。
金貨とは云へ、一万フランは凡そ七ポンド(約3kg)の目方がある。此の暑いのにご苦労だが、
「金気は冷える」
と一人合点し、
「金のない人は何を腰へ巻いて此の夏を凌(しの)ぐだろう。」
と殆ど怪しまれるばかりに喜んだ。
この喜びの間にも彼は直ぐに大事な目的を忘れずに茶谷立夫が不身持の数々を師匠三峯老人に言い立てようと時を見てその小口を開くと、これは意外、老人はくわっと怒り、
「婚礼の前になれば世間の人が羨んで様々の悪口や讒訴(ざんそ)《陰口》を言うのは当たり前だ。それを貴様が本気にし、俺に取り次ぐ馬鹿があるか。」
と唯一口に叱り付けた。
「イヤ取り次ぐのでは有りません。私が確かに見届けたのです。」
と言い開くと皆まで聞かず、
「貴様までが讒訴者に加担するのか。」
と益々怒るばかりなので、証拠の指輪を持ちだす事も出来ず、
「そう云わずに仕舞いまで聞いて下さい。」
と云い掛ければ、
「イヤ、聞かぬ。聞かぬ。娘の幸いを妨げる者は弟子ではない、師匠ではないぞ。」
寄せ付けない剣幕なれば、長々は殆ど失望したが自ら又思い切り、
「エエ、こうまで云って聞かれない者は仕方がない。此方が親切で云うものを先が返って仇に聞くなら此方は言わないだけの事」
と自狂(やけ)になって断念(あきらめ)たのは仕方が無い次第だ。是ばかりでなく長々の身になお辛いのは此の時から親子とも長々を疑う様に、彼の前では内輪の話しさえ慎むようにし、中でも亀子は痛く長々を嫌ったようで彼には顔さへも見せないようにするふうだった。
今迄家族同様に待遇(もてな)されていた長々も今は一つの邪魔者である。長々は憤然とし暇を取って去ろうかと思うことも度々だったが、まだ考えることもあるので虫を殺して踏み留まった。彼がようなのが見掛けに寄らない忠実の男と言うべきだろう。
彼の不愉快に引き換えて茶谷立夫は日々親子を訪ねて来る。その様子は今までと変わらない。歌牌(かるた)室で長々に逢った事は夢にも覚えなしと言う顔で長々に会っても赤面もしない。だからと言って別に長々を避けもせず親しみもせず、
「アレハ我が妻の父の弟子なり。」
と冷淡に見て冷淡に待遇(あしら)うだけなので、長々は唯彼が図々しくて且つ巧みなことに驚くばかり。殊に彼先夜の負けを物の数とも思わないのか相変わらず立派な馬車に乗り贅沢にも御者二人別当二人を連れているなど一廉の貴公子でなくてはその様を学ぶことはできない。
なお聞く所に由(よ)れば彼の公証人と亀子の公証人は既に立会いの上両家の身代《財産》に少しも傷のない事を認め、その旨を双方に通じたとの事であるが、長々は益々合点が行かず、さては彼の筆斎が茶谷立夫はその家を荒らしたばかりかポン引きにまで成り下がった男だと言った事も全く何か仔細があって茶谷を憎む猿田の悪口を真に受けた者で、茶谷の身代はなお無傷の儘(まま)ではないのか。
たとえ他人を欺くとも公証人を欺く事は到底出来難い事だから是ばかりは疑うことは出来ないと果ては自分でも分からなくなった。 このようにして漸(ようや)く日曜日になったが、他人の事に気を揉むより自分の幸福を図ることのほうが大切だと言って朝早くから身支度をして前から打ち合わせてある午後の一時を待ち兼ねてラペー街にある鶴子と耕次郎の下宿を訪ねて行った。
やがてその前に達っした頃、若しや鶴子が我を待ち兼ねて四階の窓から首を出し、空しく外を眺めて居はしないかと先ず窓の方を見上げると、ガラス戸は風入れの為に開いてあったが愛らしい顔は見えない。その代わり彼のが目に留まった一物は鶴子の窓のもう一つ上の五階の窓際に肱を突き空しく遠近(おちこち)の景を眺めている一人があった。
此の人を誰とするかは下より見上げた所では唯その髭のある顔の裏を見るだけで素より誰ともわからないが虫が知らせると言う者か、長々は見覚えがある心地がするので、更に通りの向こう側まで引き退きここから斜めに見上げると果たして是虫の知らせた通りで別人ならぬ天狗ッ鼻の竹二郎だった。
その鼻は生え茂った髭の外に一寸ほど突き出て見える。アア彼春野鶴子と同じ宿屋に下宿していたのか。好し好し既に住居さへ認めて置けば必ずしも今日に及ばない。他日それぞれの用意を調(ととの)え、改めて訪ね来よう。直々彼に会って問い詰めるのも容易だ。彼の為にその大事な美術館行きを延ばすには及ばずと思案を決して此の家に入り行きたるが、これぞ意外な活劇を演じる事になる初めである。
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