巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

nyoyasha36

如夜叉(にょやしゃ)

ボアゴベ著 黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2012. 5.12

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                 第三十六回

 是まで述べて来て鼻竹は只管(ひたすら)に時の移るのを気遣う様に、
 「サア、是だけ言えば最(も)う好かろう。早く約束通り放して呉れなければ再び巡査が上って来てしまうが。」
 (長)イヤ、未だ少し問う事がある。
 (鼻)「問うことは幾らあっても巡査が来てから放して呉れたのじゃ何にもならないから余り手間取れば幾ら問うても返事せずに行ってしまうぞ。」
と言う声さえも落ち着かない様子で戸の方を眺めまわす。

 (長)イヤ最(も)う五分とハ手間は取らない。全体『まあ坊』とは何者だ。
 (鼻)何者だと。手前が見た通りの女じゃないか。踊りの時などに一緒に逢うばかりで其の外は何も知らない。只金離れが綺麗だから姉御姉御と立てて居るのサ。
 (長)でも職業があるだろう。
 (鼻)爾(そう)サ。大金を湯水のように使う所を見れば儲け口はあるだろうがそれも真面目な商売でハなく、鼻の下の長い金持ちを丸めてでも居るだろうよ。彼女の気質では外の仕事ハ出来ないから。

 (長)今何処に住んで居る。
 (鼻)何処に住んでいるかだと。その様な事を問う様じゃ手前未だ『まあ坊』の気質を知らないと見えるな。先年外国へ行く前にハ随分俺等も親しくしたが其の時でさえ訪ねて来られるのを五月蝿(うるさ)いと思ってか誰にも住所は知らせはしない。その癖己等(おいら)の住居へハ幾度も遊びに来たけれど。

 長々は少し意外の思いがしたがその言い振りが偽りとも思われないので更に問いを起こし、
 「何時外国から帰って来た。」
 (鼻)それも確かには知らないけれど、此の頃に違いない。俺の逢ったのハ人殺しの晩が初めてだ。サア是だけで好かろう。放して呉れ。

 (長)「未だ未だ」
と言いながら長々は少し考え、
 「『まあ坊』に情夫(いろおとこ)が逢ったのを知って居るか。」
 (鼻)爾(そう)サ、アノ気質でハ二人や三人ハあっただろう。
 (長)爾(そう)じゃない。茶谷と言う伯爵を情夫にしていたが。
 (鼻)それハ別に不思議でも何でもない。候爵や伯爵など云う者の手を引いて公園を散歩して居た事ハ何度も見受けたから。

 (長)だが手前ハ其の中の一人が茶谷と云ッた事を覚えていないか。茶谷立夫と言ったことを。
 (鼻)己(おれ)がその様な事を如何して知る者か。公園で逢った時ハ己などにハ口も聞かず自分が丸で侯爵夫人にでもなった様に澄ましていたから。此方(こちら)からも挨拶などする事ハ出来ず、知らない顔してその次に逢った時褒美の金に有り付くのが己等(おいら)の目当てだもの。

 (長)シテ見ると『まあ坊』が貴夫人の真似などハ出来ないと聞いたのハ間違いだな。
 (鼻)爾(そう)サ、踊りの場所でばかりアノ女を見る者は、彼女の踊りで貴夫人のまねなど出来ようとハ思ひも寄らないが、中々爾(そう)ではない。己等(おいら)の仲間でハ女俳優に違いないと思って居る。
 (長)手前も爾(そう)思うか。
 (鼻)思うとも。俳優でなければアノ様に能く踊り又金を播く筈ハないもの

 長々ハ聞くに従がい益々我が疑いの当たる様な心地がしたが、是だけではまだ何の手掛かりにもならないので、今度は短兵急に押し寄せて、
 「手前は軽根松子夫人と云う者を知って居るだろう。」
と問い、彼の顔色に目を付けると彼更に何も感じないようで、
 「何だと」
と云ひ掛けたが此の時階段の方で何か物音が聞こえたので鼻竹ハ又耳を立て、

 「先ア聞け、巡査が上がって来る。ここで俺が捕まれバ手前まで巻き込むぞ。」
と云う。此の度胸に長々も少し驚き直ちに窓の方に行き往来を見下すとまだ彼の栗川巡査が出口を見張り鍵鍛冶の来るのを待っている様子なので、
 「ナニ未だ上がってハ来ない。併し最(も)う長い事ハないからサア早く言ってしまえ。軽根松子と云うのが即ち『まあ坊』と同人だろう。」

 (鼻)軽根松子などと己は今聞くのが初めてだが、若し同人なら己の方でも其の名前を覚えて置きたい。其の松子と言うのが『まあ坊』にでも似ているのか。
 (長)似ているとも。生き写しだ。
 (鼻)其の女は何処に住んでいる。
 (長)アンヂョー街の角屋敷に。
 (鼻)「シテ其の女も矢張り此の頃外国から帰ったのか。」
と今はアベコベに長々に問い詰めようとする。

 (長)爾(そう)と見える。それを手前が知らない筈はないだろう。
 (鼻)イヤ知らない。
 (長)全体『まあ坊』の本当の名は何と言うのだ。
 (鼻)それも知らないが爾(そう)サ『まあ坊』と言ふ所を見れば矢張り松子とか豆子とか言うのだろう。併し最(も)う逃がして呉れ。落ち着いて居られない。

 (長)イヤ未だだ。
 (鼻)未だだと言っても此の上の事は知らないから仕方がない。
 (長)知らなければ仕方がないけれどその代わり証拠を貰はねば。
 (鼻)証拠とは何の証拠を。
 (長)手前が今まで言った丈の事が嘘でないと言う確かな証拠を。

 (鼻)箆坊(べらぼう)めその様な証拠がある者か。
 (長)有るから呉れろと言うのだ。人殺しの後で『まあ坊』から寄越した手紙が有ると言ったじゃないか。其の手紙を今もまだポケットへ入れて居るだろう。サア呉れ。今度こそ本当に巡査と探偵の足音だぞ。成る程最下層の段梯子に当たりドヤドヤと上り来る足音がある。

 (長)サア最うたった一分。
 逃げ損なう実に是危急の場合なので鼻竹は物をも言わずポケットを探って反古の如き物を取り出し長々の目の前に指し付ける。長々は受け取って押し開き唯一息に読み尽くし、
「好し是で好い。」
と言い突き放すと鼻竹は一足で早や戸の外へ飛び出す。其の早いこと電光石火に異ならない。

 長々は後に耕次郎と顔を見合わせ、アア彼奴(きゃつ)巡査の網の中に飛び込んだ。
 (耕)イヤお聞きなさい。足音を。彼奴下へは降りずに再び五階へ上って行きましたが。
 (長)五階へ帰れば捕まるばかりです。今度は巡査が鍵鍛冶を連れて来ましたから。それとも再び此の室の窓へ飛び降りる積りでもありますか。

 (耕)今度飛び降りれば捕まえて巡査に渡して遣りましょう。全体今放したのも好くなかった。
 (長)だって放して遣ると言う約束でアレ丈の事を喋らせたのだから。
 (耕)夫(それ)はそうです。約束だから仕方もないが。
と評議の未だ終わらないうちに早や巡査ハ四階まで上って来た。此の部屋の前を通って更に又五階へと上って行った。鼻竹は如何にして逃れんとするのかは分らない。

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