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黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

nyoyasha37

如夜叉(にょやしゃ)

ボアゴベ著 黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2012. 5.13

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如夜叉              涙香小史 訳

                  第三十七回

 五階を指して上り行く巡査の足音を聞きながら耕次郎は長々に打ち向かい、
 「折角貴方が問うたけれど、アノ鼻竹とか言う男は別に大切なことを言いませんでしたね。」
と言う。

 (長)イヤ如何して、これでもう三峯老人の目を潰したのは『まあ坊』と確かに分かり、更に『まあ坊』から鼻竹に寄越した手紙まで手に入れましたから此の上は唯松子夫人の書いたものを得て其の文字を比べてみれば同人か別人か直ぐに分かります。
 (耕)ですが松子夫人の書いた者を手に入れる工夫ありますか。
此の問いには長々も閉口して頭を掻いたがややあって、

 「今は工夫と言ってもありませんが後で能く考へれば必ず何とか出来ましょう。今までの苦労に比べれば是から後は易しい者です。」
と事も無げに言い放ったが、真の困難ハ漸(ようや)く是から始まるもので、今までは序の序なりとは更に思いも寄らなかった。」

 (耕)「それにしても茶谷伯爵が『まあ坊』の情夫と言う事は少しも証拠が上がらないではありませんか。」
と言う。成る程耕次郎の気に掛かるのは茶谷と亀子の婚礼の一点に在る事だからこう言うのも無理ではない。長々はその心を察して遣り、
 「ナニ貴方、松子と『まあ坊』とが同人と分かればその松子の落とした指輪が茶谷伯爵の品と言う事は既に分かって居るからその後は言わなくても分かると言うものです。」
と頻りに耕次郎の気を引き立てようとするが、その中に早や五階では鍵鍛冶が様々の鍵を取り鼻竹の室を開けようとする音が手に取る如く聞えるので耕次郎ハ心配気に、
「若し今鼻竹を放した廉で我々に疑いでも掛れば面倒ですね。」

 (長)「ナニその様な心配はありません。」
と口では立派に言い切ったが心には幾分か危ぶむ念が存するので、
「イヤ貴方は鶴子さんと共に室の中で待ってお出でなさい。私が五階へ行き疑いの掛らぬ様旨く言い開いて来ますから。」
と言ひ己は直ちに此の室を飛び出し、入り口の戸を固く閉めて置き其のまま五階へ走り上ると、

 此の時鍵鍛冶は戸を開き終わり、巡査探偵残らず鼻竹の室(へや)に押し入った所だった。去れど鼻竹は如何したのかその姿が見えなかったので一同は打ち驚き、
 (甲巡査)これは不思議だ。鍵鍛冶を呼びに行った間に彼奴(きゃつ)悠々と逃げて仕舞った。

 栗川巡査は是を打ち消し、
 「その様な筈はない。僕が出口の番ををして居たから逃げれば必ず僕の目に触れるはずだ。」
 (甲)では誰かの部屋に隠れて居るのだろう。先ず四階に下宿している人の部屋から探して見よう。」

 長々はぎょっとして
 「了(いけ)ません、了(いけ)ません」
と思はずも声を発すると甲巡査は直に聞き咎め、
 「貴方は全体誰ですか。」
長々が答えぬ先に栗川巡査が、

 「イヤ此の紳士ハ僕の知人で、今まで此の下の部屋へ遊びに来ていたと言って長々の身の上を保証するので、長々は力を得て、
 「貴方方の捜して居る者は今しがた五階を降り四階に下宿する私の友達の部屋に匿まふてくれと言いましたが私が友人と共に断然跳ね付けましたら再び此の五階に上りました。それハもう確かです。私が保証します。」

 (甲)「ではこの辺に居なければならないが。」
と怪しむ言葉の終わらないうち乙巡査が走って来て、
「分かった分かった。廊下の隅に天井裏へ上る梯子がある。それを上って彼奴(きゃつ)は天窓から屋根へ逃げたのだ」
と報ず、一同は之を聞き唯驚くばかり。

 (甲)でもそれは君の想像と云う丈だろう。愈々屋根へ逃げたと云う証拠はないだろう。
 (乙)「大ありだ。天窓の戸をコジ開けてある。今から屋根に上れば捕える事が出来るだろう。」
と云ったが一人も返事をしない。何しろ五階の屋根で地を離れること百尺(30m)余りなので屋根葺(ふき)を商売とする者でも迂闊にハ上ルことが出来ない。

 ましてや大地の外は歩いた事のない巡査探偵達が一度之に上って行ったならば、歩まない先に眼が眩(くら)むことだろう。殊に若し曲者が足場を作って待ち受けて居たならば近寄る者ハ唯唯一突きに突き倒され滑り落ちて命を失うだけなので、誰も彼も顔見合はすのみにして私が上りましょうと言わないのも無理はない。独り長々ハ奮発して、

 「でハ僕が上って捕えて遣ろう。」
と進み出た。
 此の言葉に栗川も力を得て、
 「僕も行こう。」
と云う。一同の巡査探偵ハ賛成の声も発せず。だからと言って引き留める様子もないので長々と栗川は一同を押し退けて天井裏に上り曲者のコジ開たる天窓を潜って外に出ると外は是広々とした大空で飛ぶ鳥の外見る人もなし。

 屋根はそれほどまでに険しくはない。十度余りの傾斜なので通例の坂道に同(ひと)しいけれど何しろ滑らかな瓦で其の上靴ばきの事なので足掛りと言っても何も無く、一歩を踏み誤れば身を支え方法もない。二人とも幾らかの経験があるので、自ら進んで此の危険な役に当ったものだが、ここが生死の境かと思うと迂闊にハ進むことも出来ない。

 先ず此方彼方を見回して見ると、曲者ハ何れに行ったかその姿が見えなかったが唯頂辺(てっぺん)の所に当たり隣家と此の家と両方で用ふるものと見え最(いと)太やかなる煙突がある。その陰の外にハ隠れるべき所はないので二人とも必定そこと目を付けて、
 
 (長)アノ背後(うしろ)に隠れているぜ。
 (栗)それハ無論サ、併し如何して捕えて呉れよう。
 (長)二人が右と左に別れてから行こうでハないか。」
 (栗)「好し」
と言い二人は煙突(けむりだし)の許まで進み、ここで右と左に別れ両方から探って行く。

 もし左右とも同じ時に煙突の背後に到ったならば二人と独りの戦いなので彼鼻竹を捕えることは簡単なことだが、長々の足の方が早やかったのだろう。僅かだったが栗川より先に相対した。唯一突きに長々を突き飛ばし次に一方より現はれる栗川に向かった。

 憐れむべし長々は鼻竹に突かれた為其の足を滑らせてうつ伏せに倒れてしまった。彼の身ハ宛(あたか)も水の流れるる様にスルスルと滑り降る。彼立とうとするにも立つ方法がなく、何か捕えて身を留めんようともがいたが一面の瓦葺で取り留める者もなし。初めはノロノロと滑っていた者が益々モガクに従がって愈々勢いを増して来た。

 今は宛(あたか)も雪なだれが山より落ちて来るように留めるのに方法がない。アア彼が身が屋根にあるのは今一秒の間しかない。一度屋根を離れれば百尺(30m)の下に落ち、路上の敷き石に骨までも微塵となるだろう。アア彼終にこの世の人ではないことになってしまうのか。

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