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nyoyasha42

如夜叉(にょやしゃ)

ボアゴベ著 黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2012. 5.18

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如夜叉              涙香小史 訳

                 第四十二回

 (皺)でも其の心当たりの人とは誰だえ。
とお皺婆が聞き返すと『松(ま)あ坊』は答えようとしてしばらく考え、
 「ナニお前の知った人ではないよ。それに良く考えて見ると矢張り私の思い違いだ。」
 (皺)それにしても何だか気味の悪い話じゃないか。拾った人がお前を知っていて直々に返しにくるとは。
 (松)そうさ。だから新聞に広告して見たいと言うのさ。指輪の値打ちは精々五十フランかそこいらだけれど私は千五百フランまで出してやる。

 先の夜公園で赤印度人に向かい千フランまで付けたけれど彼は手放さなかったから今度は五百フラン付け増したものだ。お皺婆は打ち驚き、
 「千五百フランと言えばお前七十五ルイじゃないか。その様な馬鹿馬鹿しい値がある者かね。」
 (松)イイエ少し訳が有るのだよ。お前だから打ち明けて言うけれど知っての通り随分私は男も騙したから何処に何の様な敵があって私を付け狙っていないものでもない。

 (皺)それはそうだよ。全体お前の綺量が好すぎるもの。
 (松)綺量は如何でもさ。だから私の心配はその指輪が事に寄ると私を恨む者の手に落ちたかも知れないと言うもの。今千五百フランと言う褒美を出せば唯の人なら必ず持って来るだろう。
 (皺)それは持って来るともさ。

 (松)それを若し持って来ないならば只の人ではない。必ず私の敵と言う者でその指輪を銭金に代えられず、それを以って私に仇をしようと思っている証拠だから私も用心しなければならない。自分の身に暗い覚えは無いにしろ、人という者は詰まらないことを根に持って恐ろしい仇をする者だから。

 (皺)それはそうとも。そこまで考えるとは感心だ。けれどねえ、もし欲に目のない細工人が偽の指輪を拵(こしら)えて千五百フラン取りに来たらどうしよう。」
 (松)ナニその様な気遣いはないよ、何月何日何処の辺りで失くした紳士の指輪と書いて置けば偽の拵え様がないじゃないか。それにね、その指輪には煙のように細い字で「車を用いず馬を用いず唯我が足を用う」と言う金言が彫り付けてあって顕微鏡で見れば良く分かるから。

 (皺)好し好しそれで若し拾い主が持って来てお前の事でも問う様なら一切知らないと答え、或る紳士から頼まれたと言えば好いだろう。
 (松)「そうさ、その落とし主が私だと言う事を知らさないようにお前に頼むのだから。其の積りで居てくれれば好い。」
と是で話はほぼ終わったので、皺婆は先に値を決めた古着を取りポケットから百フランの金を出し渡そうとすると、

 (松)「それには及ばないよ。新聞の広告代やその褒美をお前に
渡さなければならないから。」
と言う。婆は又百フランを渡して自筆の受け取り書を貰って行かなければ長々生の頼みに背くのを知って居るので、
 「イエ商売は商売で頼まれ事は又別だから、それを一緒にしては帳尻が合わなくなる。渡す者は渡して受け取る者は別に受け取らなければ。」

 (松)大層規則がやかましいね。では百フラン置いておいで。別に私からは広告代を見積もって二千フラン渡すから。
 (婆)アアそうしてお呉れ。それにね、私には金主があって自分の商売とは言う者の実は金主の商売だからこの百フランの受け取りも書いて貰わなければ。
 (松)オヤオヤ大層面倒臭いねえ。
 (皺)「面倒でも二行か三行だ。訳はないわね。そうしないと金主が疑り深い人で棒先を切っただろうなどと私を疑うからさ。ナニ金主の他には誰にも見せないからお前の名前で書いてくれても大丈夫だよ。」
と婆は長々から教わった通り言い回し、終に『松あ坊』もその意に従いテーブルに向かってサラサラと受け取り書を認(したた)めて更にその引き出しから別に百ルイの金を出しこれを婆に渡しながらも、

 「今日も少しお前を引き止めたいが実はね或る彫刻師が是非とも私の姿を彫りたいと言い、昼過ぎからその方へ行くかなければならないからもうそろそろ仕度をしなければならず、これ以上長く話して居る事は出来ないので、この次又ゆっくりと。」
 (皺婆)イエそう言わなくても私は未だ用事があるから長居は出来ない。成る程お前の器量ではよし彫刻師や画工が大騒ぎをするはずだと言い、これであの古着を畳んで持ち再会を約束しながら婆は松子に別れを告げ玄関まで出て来て以前押し退けた女中に向かい約束の通り五十フランの割を与えそのままここを出てやがて彼の長々を待たせて置いたコーヒー店に行ったが、長々は余程待ち兼ねて居たと見え嬉しそうに出て来て、

 「首尾はどうだった。」
 (皺婆)大好しだよ。自筆の受け取りまで取って来た。
 (長)だがその松子夫人と言うのが俺の言う通り『松あ坊』だっただろう。
 (皺婆)そうともね。他人が行けば『松あ坊』でないと言うところかも知れないが、私に隠す事は出来ず直ぐに打ち解けて色々な話をしたがね。
 (長)その話を己等(おいら)に聞かせて貰いたいが。
 (皺)ここでは話も出来ないじゃないか。私の店まで一緒においで。

 (長)お前の店は遠すぎるから直ぐそこの公園が良いだろう。
と言って長々はここから婆を小公園に誘い通行人のない所の腰掛を選んで座ると婆は『松あ坊』が露国から帰った次第など詳しく語り、且つ彼の受け取りを出し示して、
 「どうだえ、この文字と文の文字と同じ事かね。」
と問う。
 長々は一目見て全く先に鼻竹から得た手紙と同筆であることから、是ならば三峯老人に向かい松子夫人の『松あ坊』であることを証拠立てるのに充分だと喜びながら、

 「アア是だ、是だ、やっぱり俺への文も『松あ坊』が自分で書いた者に違いない。」
 (皺)だが長さん。お前『松あ坊』と忍び逢うなら用心しなければいけないよ。先の情夫が未だ『松あ坊』に付いているから、お前に何(ど)のような仇をするかも知れない。
 (長)好し好し、だがその情夫の付いていることが如何して分かる。

 (皺)私が行った時その男が玄関へ出て来たから分かるはね。『松あ坊』はもう情夫でも何でもないと言うけれど、私の見たところでは昨夜からその男が泊まり込んでいたのだよ。
 (長)その男の容貌はどの様だ。
 (皺)口では充分に言えないけれど、随分好い男だねえ。恐ろしい立派な姿(なり)をしてさ。

 (長)年は
 (皺)年は三十を越しているだろうけれど矢張り『松あ坊』と同じ事で私が七、八年前に見た時と余り変わっては居ないようだ。それにね、もう一つ怪しいのは「松あ坊」が紳士の指輪を捨てたからそれを新聞に公告して呉と言うのさ。私の思うにはその指輪も矢張り情夫の品だろう。自分では既に死んだ人の品だと言うけれど何しろ見付け出した者への褒美が千五百フランというのだから何か訳が有るのに違いない。

 長々は心の中で頷いたがその指輪が我が手にある事は今から婆に示すことではないので唯無言で控えていた。婆は更に語を継ぎ、
 「お前が松あ坊を横取りすれば情夫が怒るのは目に見えているよ。何しろ『松あ坊』は今では非常な金持ちでお銭(あし)を湯水のように使うから情夫はお前にドル箱を奪われるような気がスるわね。爾(そう)だろうよ、『松あ坊』は五百フランもする立派な着物を唯の百フランで私に売ってくれるような気前者だもの。これを御覧な。」

 と言いながら彼の古着を長々の前に広げて見せる。長々は一目見て忽ちその裾の辺りに太い傷のあるのを見出したので心にハッと驚いて、
 「何だ婆さん。大きな穴が開いているではないか。」
婆は始めて気が付いて、
 「オヤこれはまあ大変な大傷だよ。私はお前が待かねているだろうと思い急いで調べたものだから少しも気が付かなかった。この様な良い生地は一寸その類がない。継当てをしようにも継ぎ当てを仕様がない。店に置いても売れないよ。」

 婆が驚いて打ち嘆く。この大疵(きず)も長々の身にとっては千金にも代え難い宝なので、
 「ナニ婆さん、その心配には及ばないよ。僅か五ルイで買ったと言えば己等(おいら)が先ほどお前に渡した二十ルイでこの着物を買ってやろう。『松あ坊』だって悪る気があってお前に疵物を押し付けたものでもないだろうから、今頃は後悔しているだろう。」

 婆は二十ルイの掛け声に急にその機嫌を直し、
 「それは何より有難いが役に立たないと分かったものをお前に高く売り付けるのは。」
 (長)ナニ他人には役に立たないだろうが己等(おいら)にとっては役に立つ。イヤね、人形を彫刻すればこれで四、五枚は着物が出来る。彫りは悪くてもこの切れの着物を着せれば着物に目が行って買う人は幾らでも居る。」

 (婆)成る程、商売商売だねえ。人形の着物にするとは知らなかった。
 (長)じゃ二十ルイで買い取ったよ。
と念を押し、彼の受け取り書とこの着物を鬼の首より大事にし長々はここを引き上げた。嗚呼彼は何故にこの大疵(おおきず)のある古着を珍重するのだろう。
 それらは読者が既に知っている事なので言うだけくだくだしいことだ。

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