nyoyasha47
如夜叉(にょやしゃ)
ボアゴベ著 黒岩涙香 翻案 トシ 口語訳
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如夜叉 涙香小史 訳
第四十七回
松子夫人は我が身が敵として狙われて居る事を知る訳がなかったのでこちらの案内も待たずに悠然と入って来て、口元に笑みを含めて三峯老人の傍に寄って来た。この時夫人は長々がここにいるのを見、殆ど他人には分らないほど薄く顔色を変えたが直ぐに取り直して長々にも友達に与えるような笑みを与えた。老人はこの足音を聞き杖を頼りにして立ち上がる。
彼の顔には今迄怒っていた色も消え、日頃よりも更に柔和な様子を現していたが心の中はどの様になっていただろう。今こそは我が目を潰した敵を捕え、その疑いを調べた上、様子によっては生涯の恨みをも晴らしてやると決心しているから胸の波は高いはずだ。
「オオ夫人か、好く来て下さった。」
と挨拶する声にまで何処となく恨みを帯びて聞こえるのは唯長々生の心の僻(ひが)みからか。
長々は腹の中で、
「夫人がどうか様子を悟らなければ良いが。」
と唯只管(ひたすら)に祈るばかり。
しかし夫人は神ではない。如何して様子を悟る事ができよう。麗しい声で、
「実はですね、直ぐに二階の亀子さんの部屋まで行こうと思いましたけれど、細工場の中で老人の声が聞こえた様に思いましたので、一寸ご挨拶だけしてと思い、この通り入って来たのですよ。」
(老)「イヤそれは却って良かったです。もう追々日も短くなる頃ですから、早く始めないと夜に入ります。初めての日はどうしても長く掛りますから、サア夫人、直ぐに雛形を作る事に取り掛かりましょう。」
(松)「ですがせっせと歩いて来まして私は息が切れて、少し亀子さんの部屋に行き休んで来るまでお待ちなさって戴きましょう。何十分間とは掛りません。」
(老)「イエ夫人、亀子はまだ化粧も出来ませんから。」
(松)「ナニ、貴方、私に会うのに化粧が要りますものか。茶谷さんに逢うのではなし。それにですね、先日約束してありましたから、今日は露国の流行歌を二、三枚写して来ましたよ。一寸それを渡して来ましょう。」
と早や立ち上がろうとするが老人の心は既に疑いが満ち満ちて一刻も早く夫人の顔を探り、この疑いを晴らさなくては自ら落ち着かないので、
「イイエ、後でお渡しなされば好い。今は唯お顔だけ探りまして、大凡の見当を見るだけですから、ササ長々早く夫人をお座らせ申しなさい。ナニ大凡の当たりが付けばまだ長々に買いに遣る品物もありますので、その間にゆっくり亀子の部屋でお話をなされば好い。本当の雛形にはその後で取り掛かります。」
と言う。
長々は師匠が我を買い物に遣ると言うのは即ちお皺婆を呼んで来いととの心だろうと悟りながら無言のままで先ずその言い付け通り夫人を見本の台に座らせ、
「なる丈体を楽にして顎を少し前に突き出す様な感じで」
と宛(あたか)も写真師が客の見姿を指図するようにすると夫人はその言うがままに身を構えた。
(長)「サ、老人、身構えが出来ました。」
(老)「そうか。そうか。どれどれ」
と言いながら老人は手を伸ばして夫人の顔を探り始めた。長々も気が気でなかった。この試験は終には如何なる事になり行く事だろうと老人の指先ばかり眺めると、老人の指は先ず額の辺から探り始め、ようやく頬の辺に下ろうとする時に夫人は思わずも発する声で、
「アレー」
と叫ぶ。
老人は驚いて、
「オヤどうか致しましたか。」
(松)「イイエ如何も致しませんが何だかくすぐったくて、つい声を出してしまいました。」
老人は再び探りに掛り、
「なる程、鼻はギリシャ形と違い本当に私が夢にまで見た形です。口元が締まっていて耳は少し小形の方で、分りました、分りました。ドレ頬は、フム、この頬は昔ミケランゼロの刻んだ美人とも又違う。成る程美人の本相が備わっています。」
と言い掛けて老人は宛(あたか)も指先を焼けどした人のように急に引いたが、再び又差し延ばして、
「ハテな、ここに少し窪んだ所がありますな。フムこれは確かに古傷だ。夫人貴方のは頬には横に古傷がありますか。」
この遠慮ない問いに逢い夫人は殆ど顔色を変えながらも、
「ハイ、これは幼い頃縁側から落ちまして」
(老「そうですか。では矢張り雛形もこの辺りを少し窪ませて置きましょう。」
と言う。
夫人は熱心に、
「十四、五の頃までは目に立つほどの傷に成っていましたが今では鏡に向かっても自分にも分らないほどですからわざわざ雛形の頬へ傷を付けるには及ばないでしょう。尤も私はそう思いますが、それとも目に見える程の傷ですか。」
と長々に向かって問う。長々は突然の事なので少しまごつきはしたけれども、
「イイエ、貴方の頬に横傷があろうとは今迄少しも知りませんでしたと答えた。横傷の一言は極めて耳障りなので長々も直ぐに自分の言葉の滑ったことを後悔したがその甲斐はなかった。」
(松)「この方にさえ見えない程なら愈愈雛形の頬に傷を付けるのには及ばないでしょう。」
老人は些細なこと争う時ではないと見て、
「ハイ、人の目に見えない程なら勿論付けるのには及びません。」
と言い静かにその手を引き去ると、
(松)もう探りは済みましたか。
(老)「ハイ、済みました。これから本当の雛形に掛りますから長々を同業の所に一つ道具を借りに遣り、私は粘土を練りましょう。亀子にお会いなさるならこの間に会っていらっしゃい。」
(松)「では直ぐに二階へ行き、下りる時には亀子さんと一緒に来ましょう。」
(老)「イヤ亀子が傍にいては私の気が散ります。必ず貴方一人
で。」
(松)「ではそういたしましょう。」
と言い長々と老人の顔を見る。その様子にて察すれば『松あ坊』は早や既に老人に横傷のことを知られてから一種の疑いを起こした様子なので長々は腹の中で、
「エエ老人はこの『松あ坊』が目から鼻に抜けるような利発な女と言う事を知らないから仕方がない。傷があると分かっても無言で居れば良いのに、根を押して問うたため大概悟られてしまったようだ。この女はもう再びこの家へは足を運ばない積りだろう。」
と呟(つぶや)いた。
夫人は立って、
「では裏階段から上がりますよ。ここを上がれば直ぐ上が亀子さんの部屋でしょう。」
と言ったが中々上に上がって行く様子はなかった。何気なく見せかけて壁に掛けてある絵額など眺めるのは我が逃げ道を探すものか。そうでなければ何か老人が確かに我が身を疑っているのかどうかを突き止めようと思っている様子だ。
長々はそれと察し先ほど持って来た証拠の古着をそのまま長椅子に掛けて置いた我が不注意を後悔し彼の古着を夫人の目に見られてはと一人心を痛めるうちに夫人は隈なく部屋中を見回して充分に彼のっ古着を発見してしまった。発見して忽ち顔色を変えたが逃げもせず、問いもせず唯長々を振り返って彼が腹の底の底まで見抜こうとする様にその顔をキッと見る。
長々は真実の探偵ではない悲しさ、見られて平気に済ますことが出来ず当惑の色を隠そうとして自ら現れたので、『松あ坊』の鋭い眼はただこれだけで何もかも見抜いてしまったに違いない。しかし彼女は何気なく、
「ドレ、早く亀子さんに逢って来ましょう。」
と言いそのまま階段を上って行った。
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