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黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

nyoyasha50

如夜叉(にょやしゃ)

ボアゴベ著 黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2012. 5.26

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如夜叉              涙香小史 訳

                第五十回

 松子と思って殺した女が松子では無い。誰だろう。三峯老人の心にはもしやと思う疑いはアルが、その疑いを思い出すのさえ恐ろしく、誰と一思案を決めることが出来ない。その身は驚きに跳ね返って尻からどうと倒れたまま起き上がる勇気もなく、人を呼ぶ心も出て来ず、再び手を差し伸べて横傷のない顔を探るにも、総身ただ恐ろしさに凍えてしまったとも言うべきか。

 差し伸べる手は伸びず、この時若しまだ九寸五分が我が手にあったなら直ぐに我が胸を差し抜いてこの恐ろしさを逃れる所だが、九寸五分は何処かに投げ捨ててしまった。少しの間は胸に轟く我が動悸の音に叱られるだけだったが、ややあって気を取り直し、

 「イヤイヤ矢張り俺の思い違いだ。松子だ松子だ松子の外にこの部屋に下りて来る者は居ない。くれぐれも一人で降りて来いと言い付けて置いたから。爾々(そうそう)柳田夫人も降りて来ない。亀子も勿論一人では降りて来ない。俺の探り方が足りないのだ。良く探ればあの横傷があるのに違いない。」
このように言って再びその手を差し伸べたがなかなかその顔には触わることが出来ない。先ず髪の毛に手を掛けるが、その柔らかいことは絹糸のようだ。

 「こう俺の手にもつれ付く所はどうしても覚えのある髪の毛だ。エエ松子では無いのかア、無い無い、ほかの女だ。この縮れ具合は丸で、エエ情けない。悔しい。」
と探り終わらずして泣き叫ぶ老人はこの死骸を誰の死骸と思うのだろう。この様な時に表の戸を外から押し開く音が聞こえて来たので、老人は又驚き、

 「もう駄目だ。長々生が帰って来た。お皺婆とやらがこの有様を一目見れば他人の事なので無言では居ず、警察にも訴えるだろうが、イヤそれにしても長々の目で見れば殺された女が誰と言う事が分る。一刻も早くそれが分らなければなお更心配で仕方が無いから。」
と呟くうちに長々は唯一人で入って来た。

 「先生、生憎にお皺婆は家にも店にも見えませんが、貴方がお待ち兼ねだと思いとりあえず引き返して来ましたが。」
と言いながらやって来て、たちまちに老人が血塗れた女の死骸に寄り添っているのを見、
 「ヤヤ何事が出来たのですか。」
と言い、一足老人の傍に進み死骸の顔を見るよりも、
 「ヤヤこれは亀子さんがどうかしたのですか。」
と驚き叫ぶ。

 兼ねて疑っていた事とは言え、亀子の名を聞いて老人は魂消る声で、
 「エエ長々、何と言う。この女が亀子とか。」
 (長)ヘイ、亀子さんです。
 (老)「残念だ。残念だ。俺は亀子を殺してしまった。」
と我を忘れて泣くも道理だ。

 (長)エ、何と仰る。
 (老)何とも言わぬ。俺が殺した。俺は松子を殺す積りで階段の下で待っていた所、絹服の音がして降りて来たから唯一突きに突いたところ」
(長)「それが亀子さんであったのですね。分りました。ドレそこをお退きなさい。私が見て上げます。まだ命が助からないものでもない。」
と長々は殆ど老人を突き退けて亀子の傍に寄って見ると、傷は首の骨を真下にあり何様深く刺したと見え、滾々(こんこん)と流れる血は辺り一面を染めていた。

 (長)血の余計出るのは却って良いと言いますが、心臓はまだ少し動いている様です。
 (老)どうだ、まだ脈があるのか。医者を早く、サ医者を
 (長)医者ハ直ぐに呼んで来ますがそれまでココには置かれません、二階の寝間まで担ぎ上げましょう。手伝って下さいな。オヤ目が見えなくては手助けにもならないのかい。仕様がないなあ、それその突き当たりが戸の所です。その戸をグットお引き開けなさい、私が一人で抱き上げますから、そうですそうです。貴方も私の後につき一人で二階に探りながら上がって来るくらいの事は出来るでしょう。」
と言い大事に亀子を抱き上げてそろそろ二階まで登って行くと、廊下の掃除をしていた女中お花はこれを見て、

 「アレ、マア嬢様が」
と打ち叫ぶのを長々は睨み付け、
 「何だ騒々しい、嬢様は今階段から落ちてこの通り気絶なさったのに上に居てそれも知らず、このうっかり者め。しかし何たいした事じゃないから直ぐに直る。人にでも喋ると暇だぞ。」
と叱り付け、更に
 「柳田夫人は何処にいる。」
と問う。

 (花)ご自分の居間に
 (長)「では直ぐに来て下さい言い、それからお前は直ぐに玄関の取次ぎ室に行き誰も来ないように番をして居なさい。誰が来ても老人と嬢様は留守だと言い決して上へ上げるのじゃないよ。」
と今は宛(あたか)も主人の様に厳かに言い渡せば、後ろより這い上って来た老人も長々の抜け目なく行き届くのに感心したと見え、
「長々さんの言う事は何でも俺の言う事だと思え」

 女中は夢中に夢を見るように一言の返事もすることが出来ないまま直ちに柳田夫人の部屋へと駆けて行ったので、長々は亀子をベッドまで運んで行き、充分に注意して死骸同然なその体を先ず難なく横に置き、更に後ろに従がっている三峯老人の手を取って、
 「先生、貴方は我が娘を殺害した罪により牢屋に行きたいとは思わないでしょう。」
と押し問うと老人は子羊の様に柔らかに、

 「イヤ如何にかして娘の命さえ助かれば俺が身はもうどうなっても良い。」
 (長)万事は私にさえ任せて置けば亀子さんも助かるものなら尽くせるだけの手を尽くして助けますし、それに又警察はもとより世間の人誰も貴方が亀子さんを殺し掛けたという事は知らないように計らいますが。
 (老)「嗚呼何もかも貴様に任す。どうぞその様に計ってくれ。」
と殆ど手を合わせて拝むばかりである。この様な所にーーーー。

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