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黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

nyoyasha68

如夜叉(にょやしゃ)

ボアゴベ著 黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2012. 6.14

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如夜叉              涙香小史 訳

                 第六十八回 

 長々は筆斎の言葉に従い早速春野兄妹の宿を訪ねて行ったが鶴子と耕次郎は恰(あたか)も一個のテーブルを囲んで夜食を始めた所だったので、長々もその片端に座を占めたが、何しろ今夜の用向きは一つには我が身と鶴子との縁談を取り決め、二つには耕次郎を亀子の許へ誘い行くという非常に難しい事柄なので容易には言い出すことが出来ない。ことに鶴子も女の鋭い神経でそれらの辺りを察したものか、わざとじらそうとする様に話を左右に託(かこつ)けて長々に口を開く機会を与えない。長々は何度か言い出そうとして、その度に妨げられ、もじもじするうち食事もようやく終わりを告げ、鶴子は其の辺を片付けながら、

 「長々さん、喜んで下さいな。作り花の名人という私の名前は貴夫人社会まで広がりましたよ。」
 長々は又も話を枝道に引き入れられるかと腹の中でつぶやきながらも、
 「そうですか。どうして。」
 (鶴)ナニ何(ど)うしてだか私にも分かりませんが、実はね、先日から毎日のように私を訪ねて来る貴夫人があるのですよ。生憎その度に私が留守ですから昨日来た時、帳場の男がその用向きを聞いた所、作り花の注文だから明日又来ると言ったそうです。明日と言うのが今日の事ですから、今にも来るかと待っていますが、花を作る細工人の多い中でわざわざ私を訪ねてくれるとは有難いじゃありませんか。

 長々は少し思い当たることがあるので、
 「ヘエその貴夫人とは何の様な方ですか。」
 (鶴)「会って見なければ分かりませんが濃いベールをした立派な方だと申します。」
 長々はきっとそうに違いないと思い、
 「鶴子さん、その貴夫人に会うのはお止しなさい。それが横傷の『松あ坊』ですよ。」
 この言葉には鶴子は素より今まで無言で控えていた耕次郎まで驚いて、

 「エ、横傷の『松あ坊』とハ」
 (長)そうですよ、鶴子さんは未だにその名前をお忘れにはなっていないでしょうが、ソレ何時か質屋の前で会った軽根松子夫人ですわね。
 (鶴)ナニその様なことが有りますものか。松子夫人ならば三峯老人の家で顔を合わせたことも有り、私に用事があれば当たり前に訪ねて来ますよ。作り花を注文したいなどとその様な事は言いません。

 耕次郎は横合いより、
 「それにしても長々さん、その松子夫人が鶴子を訪ねて来る筈がありますか。」
 (長)ありますとも、松子夫人は既に私にその本性を見破られ、この国に住むことが出来ない身になっていますもの、とっくに再び外国に逃げて行くところですが。まだこの国にまごまごしているのは恨みを晴らしたいためですよ。」

 (耕)誰に恨みを
 (長)化けの皮を剥いでやった私や筆斎や淡堂などに。そればかりでなく貴方と鶴子さんも敵の端と思っていましょう。
 (耕)エエ私など迄恨むのですか。
 (長)そうですとも。その訳を言えば今までも薄々話した通り『松あ坊』は茶谷の情婦で、茶谷と共に亀子の持参金を山分けにしようと企んでいるのです。ところがその企みに貴方が邪魔になるものだから。

 (耕)それは益々分かりません。私は何も彼らの邪魔などはしませんが。
 (長)イヤ邪魔しなくても邪魔になるのです。彼らは貴方が亀子嬢を愛していることを知り、つまり茶谷の為に貴方を恋の敵と思いまして。
 (耕)恋の敵とは分かりません。成程私は亀子嬢を愛しても亀子嬢が私を愛さない以上は何も邪魔には。
 (長)「所がそうではないのです。今夜実は茶谷が亀子を連れ出しまして外国へ連れて逃げようとし、散々に迫っているところへ丁度筆斎が行き合わせて無事に亀子を連れて帰りましたが、亀子はもうそれが実に全く茶谷の本性を見、愛想を尽かしてしまいました。」
と言って彼のエリーの別荘であった次第を筆斎に聞いたままに語り出す。

 鶴子と耕次郎が非常に驚く様子を見ながらなお言葉を継で、
 「まあ亀子が筆斎に救われたのは当人のため老人の幸せは言うまでもなく、ついては貴方の幸福です。亀子は帰る馬車の中で十分筆斎に説諭を受け、今までの迷いが覚め貴方の方へ心を傾けるようになりましたから、これから貴方が縁談を申し込めば必ずうまく纏(まと)まります。」
と何(ど)うやら我が用向き所まで漕ぎ着けると、耕次郎はこの結末の言葉に呆れ、

 「貴方は気でも違いはしませんか。」
 (長)「決して、決して、これは私ばかりの考えではなく、既に筆斎も同じ意見で、彼はそれがために老人に会いに行き、私はこの事を貴方に知らせに来たのです。今頃は必ず筆斎が十分に老人と亀子を説き老人も貴方の来るのを待っているでしょう。亀子も決して貴方を嫌っている訳ではなく、唯兄か親友の様に親しんでいただけですから、茶谷に愛想をを尽かせばその心が直ぐに貴方に移ります。それがために私がわざわざ来たのですもの。」
と言葉に分外の勢いを付けると、鶴子はこの頃気打ち塞ぐ兄の心を解く時の来たのを喜びながらも、

 「オヤ長々さんはその事を話に来て今まで話さずにいたのですか。」
 (長)話そうと思っても貴方が枝道に話をそらせるものから。
 (鶴)「それゆえただそれだけの用事で来たのに他の話に時を移しというのですね。」
と冷やかす様な言葉の中にも自ずから深い心が籠っていることだと長々は一人決めの鑑定を下すと、我が心願を言い出すのはここだと思い、今まで尻込みして隠れていた心の勇気を呼び集め、

 「イイエ、ただそれだけの用事ではありません。これと一緒に貴方のお返事をも聞きたいと思いまして。」
 鶴子はわざと気付かない様に、
 「エ私の返事とは」
 (長)「ソレ貴方はそうおっしゃったではありませんか。兄と亀子の結婚が整うまでは私は返事をしないと。それは兄さんもご存知です。今は兄さんの幸福が先ず確かに見込みが付きましたから私のこともお返事を聞かなければなりません。」
とふつつかな言葉にも十分な熱心を込めて言うと、鶴子はほとんど吹き出し、

 「アアそのことですか。本当に貴方は貸した物でも催促するような口調ですよ。それは兎に角も兄が亀子さんに会った上まで預かっておきましょう。」
 耕次郎も我が運の開こうとするのを見て、矢竹に早る心裏を包もうとしても包めず、
 「では鶴子、和女(そなた)も私が今夜亀子嬢の許を訪れるのが良いと思うのかエ。」
 (鶴)思いますとも、善は急げです。まさか長々さんが嘘も言わないでしょうから、筆斎さんが先に行って老人と亀子を説いていると言えばなお更です。

 長々は恐る恐る、
 「鶴子さん、私の方も善は急げです。」
 鶴子は又も吹き出し笑いをし、
 「貴方はなぜそのように性急なのでしょう。一時に二羽の兎は追うことはできないと言うじゃありませんか。貴方と私のことは二人の心一つでどうでもなりますから。兄が幸福の決まった後に、そうですね、明日でも又、相談しましょう。」

 その口振りは最早や承知したのも同じことなので長々は天にも登る様に打ち喜び、直ぐに鶴子の手を取って熱いキスを施そうとすると、鶴子は慌ただしくその手を引き、
 「私は昔の小説にあるようなことは嫌いですよ。キスをされる程なら思い入れされましょう。その様な手先でなく両の頬へサ、それも今ではありませんよ。婚礼が決まった後ですよ。」
と非常に機嫌よく言い放つ。長々は世界中第一の幸福な人とは我が事なるべしと思ったが嬉しさが余って言葉も出ない。鶴子は更に兄を急き立て、

 「なぜそのように顔ばかり赤めるのです。貴方も男の癖に長々さんと同じほど臆病だよ。夜の更けないうちに早く行っておいでなさい。」
 耕次郎も今は世界第二の幸福家、鶴子の言葉を機(しお)にして着物などを着替えて出て来た。
 「サア行きましょう。」
と言う。長々は鶴子を顧み、

 「貴方も一緒に行きませんか。」
 (鶴)私が行ってはかえって邪魔になります。それより私に待っている人があります。
 アア待っている人とは長々の推量するごとく彼の松子夫人だろうか。唯一人留守する所に『松あ坊』が入来たら如何ような目に逢わされるかも知れずと長々は今となって足も進まず。

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