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島の娘 (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
サー・ウォルター・ビサント作 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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(百二) 滔々と瀧の水が
唐橋夫人の言葉を遮るのは、殆ど滝の水を遮るよりも難しい。
「私は本当に好い縁談だと思いますよ。イイエ夫と妻とは、趣味が合って居なければ成らない。貴女と江南とは、同じく芸術の熱心家です。此の様な夫婦は必ず永く続く者です。」
さては此の夫人は、網守子と蛭田江南との間に縁談が出来たと思い、其れで祝辞を述べに来たのである。こう思うと同時に網守子の顔は又も曇って、
「夫人、夫人」
と叫んだけれど、無益である。滝の水は滔々(とうとう)として流れ止まない。
「とは言え、何から何まで余り同じ過ぎても、又却(かえ)って不和の本です。同じ中に異(かわ)った所も無くては成りませんが、丁度江南と貴女とは其の違った處(ところ)も有る。貴女は非常なお金持ち、江南は貧乏です。イイエ、江南はあの様に見えても、実は貧乏ですよ。
他の人は知らないけれど、私だけは良く知って居ます。あの通り贅沢に暮らして居るので、上部は裕福に見えても、内幕の苦しいのは当たり前です。もう貴女だから私は打ち明けて云いますがね、彼はここで貴女と結婚しなければ、事に由ると破産しなければ成らないかも知れません。
実に好い所で縁談が出来ましたねえ。もう此の縁談が世間へ知られれば、其れだけで彼の信用はズット高くなり、何の様な融通でも出来ますよ。貴女の財産は良くは知りませんけれど、百万円の正金を銀行へ預けてあって、一切の動産不動産を積もれば四百万円だと、イイエ、其れは江南が言う許(ばか)りで無く、世間の人がそう言って居ますよ。
ナニ、四百萬円と言ったとしても、世間には千万円も億万円も有りますから、私などはは驚きはしませんけれど、何にしても江南に取っては、大した幸いですよ。彼は是から、貴女の此の信用で、財政も整理が出来、其の上に貴女の内助で、益々出世するに極まって居ます。何しても目出度い事です。」
網守子は此の間違った祝辞を、黙って聞いて居るのは実に辛い。けれど如何とも仕方が無い。自然に止む時を待って居る一方である。
「祝辞は祝辞として、私は貴女へお願いが有りますよ。」
扨(さ)ては是から、孤児院へでも寄付せよと言う事を説き出すだろうと、追々都の生活に慣れた網守子は見て取ったが、そうでは無かった。
「是れは私と江南の間の秘密ですが、男と言う者は、自分の愛する女へは何事も打ち明ける者ですから、無論貴女へ打ち明けたに違い無い。実はね。」
と言って少し声を低くし、
「江南の書いて居る小説は、あの通り評判が好いでしょう。所があれは江南が書くのでは無いのですよ。」
網守子は初めて聞き耳を立てた。さては、小説までも盗み物であると見える。
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