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島の娘 (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
サー・ウォルター・ビサント作 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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(百十六) 夕立の前
網守子が訪ねようとする蛭田江南は、今何の様な有様であろう。
彼は宛(あたか)も夕立前の夏の空にも比すべきほど、非常に険悪に顔を曇らせ、無言で我が部屋の中を、右に左に歩んで居る。何事を考えて居るか、今にも彼の顔は腹立たしさに破裂しそうに見える。
イヤ腹立たしさ許(ばか)りでは無い。絶望も、当惑も交じり、殆ど策の出る所を知らないのである。
若しこの様な時に、人が来れば、相手を選ばずに、飛び掛りはしないだろうかとも疑われる。
テーブルの上に、今封切って読んだばかりのとも見える、幾通かの手紙が横たわっている。一通は債権者からの督促状である。一通は、雑誌の印刷所から、最早や印刷を断る外は無いと言う最後の通告である。彼は独言(ひとりごち)した。
「アア此の絵を、捨部竹里に売り渡す外は無いかしらん。売り渡せば五千円は出来るけれど、是は次の展覧会へ出さなければ成らない。とは云え」
と未だ何(いず)れにも決し兼ねて居る。
併し、此の二通よりも、更に甚(ひど)く彼を悩ますのは、次の二通である。其の一は唐崎夫人の手紙で、
「私は貴女に欺かれ、寒村嬢の許へ祝辞を述べに行き、何(どれ)ほど極まりの悪い思いをしたでしょう。貴方の嘘吐きには呆れました。最早や私と貴方の間には何の交わりも無い者と思って下さい。雑誌への寄稿も前回限りで止めました。」
唐崎夫人に此の様な怒りを受けては、彼が小説家と云う名誉も是限りである。
次の一通は柳本小笛から来て居る。其の文句は、
「永々私の詩をご採用下さった御恩を謝します。幸いに私も安心の出来る地位を得ましたので、前号に載せて戴いた詩を終わりとし、今日以後貴方のご厄介に成りませぬので、何うか私の為にご安心下さい。最早やご所望と有りましても、小笛の詩は貴方に差し上げることが出来ません。」
此の手紙は網守子が書かせたのである。彼は略(ほ)ぼそうだろうと推量して居る。
是で彼は詩人と言う名誉を剥奪される外は無い。彼が恐ろしい顔して歩んで居る所へ、又も次の便の郵書が届いた。其れは唯一通である。上書きの文字で路田梨英の手紙と分かった。彼の曇った顔は聊(いささ)か雲が薄くなり、少しばかりの笑みが洩れた。
「何、詩や小説が無くなっても、画さえ有ればまだ何うにか成る。此の男ばかりは、乃公(おれ)から離れ度くても離れる事は出来ない。ツイ先日も千円と言う大金を与えた許かりだ。又何か旨い画題が見付かって通知して来たと見える。」
と言いつつ封を切ったが、文句は短い。其の短いのを読み終わると共に、彼は悔しそうに、殆ど手紙を引き裂こうとして、
「エエ、彼奴(きゃつ)までも、彼奴までも。」
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