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島の娘 (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
サー・ウォルター・ビサント作 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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(十四) 帰り来た嚢(ふくろ)の持主
「アア矢張(やっぱ)り貴方であった。」
と老夫人の繰り返す言葉は、何時(いつ)もの譫言(うわごと)よりも、強く聞こえた。網守子も耳を澄まし、一時胡弓の手を止めようとしたけれど、又弾き続けた。
老夫人は、霞む眼を拭う様に擦(こす)り、
「最(もっ)と近く来て、良く顔を見せて下さい。」
と引き寄せ度い様子が見える。網守子は、小声で何か下田の夫と打ち合わす様であったが、直ぐに梨英に向かい、
「祖母さんの言うままに、調子を合わせて居て下さい。」
梨英は此の語に従い、老夫人の前へ顔を出した。老夫人は又熟々(つくづく)と眺めて、
「貴方は猶(ま)だ若いねえ。昔の古江田(ふるえだ)利八を其のままでーーー。」
梨英は真逆(まさか)に、
「そうです。」
とも答え兼ね、単に笑みを示した。老夫人は嬉しそうに、
「アア古江田利八さんだ。私が貴方の顔、を忘れますものかね。二か月ほども介抱して上げたもの。」
古江田利八と云う名は、部屋中の誰の記憶にも無いらしい。
老夫人「好く帰って来て下さった。貴方が此の島を立ち去る時に、再び尋ねて来ると言ったから、私は必ず来る者と、今迄心待ちに待って居ました。私は鰐革の嚢を、貴方へお返しすれば、気が済みます。」
扨(さ)ては梨英を、昔の不幸な旅人と思って居る。其の人の名が、古江田利八と云った者と見える。
「イイエ、私の岳父が、気絶して居る貴方の首から、鰐革の嚢を偸(ぬす)み取りました。けれど今は私が仕舞(しま)ってあります。何うか其のまま返し度いと思い、中の宝も手付かずに在りますよ。本に此様な嬉しい事は無い。岳父(しゅうと)のあの悪事の為に、此の家は代々祟(たた)りが続き、皆死に絶えました。貴方に是を返しさえすれば、其で祟りを逃れます。古江田さん、私は目が霞んでね。なれど耳は良く聞こえます。何とか一言言って下さい。」
梨英は黙って居る訳に行かない。網守子の目配せに促され、
「ハイ、私もお目にかかって、嬉しく思います。」
老夫人「アア矢張り古江田利八さんの声だ。昔の通りだ。もう此の家へ、祟りは成さるまえねえ。」
梨英は真実に、
「決して其の様な事は有りません。」
老婦人は益々喜び、
「オオ、皆の者も喜んでお呉れ。是で此の家の祟りが解けた。是からは、此の家に幸福が続く計(ばか)りだ。ねえ、古江田さん。」
梨英「爾(そう)ですとも。此の家には、幸いの続く計りです。」
老夫人は、よろよろと腰を延ばして立ち上がり、
「古江田さん、私の手を握ってお呉れ。」
と言って、九十五歳の萎びた手を差し伸べた。梨英は云われるままその手を握ると、
老夫人「アア嬉しい、嬉しい、皆の者も古江田さんの手を握るが好い。此の家には最う幸福が続く計りだ。」
と、顔に非常に深い満足を浮かべたまま、力が尽きたか、ガックリと又眠り込んで了(しま)った。
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