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島の娘 (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
サー・ウォルター・ビサント作 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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(百四十四) 彼は盗棒(どろぼう)の如く
不意に五十萬圓(現在の約五億円)以上の財産が転がり込めば、何の様な心持ちがするだろう。余ほど嬉しいに違い無いのに、何故か蛭田江南は、嬉しさよりも一種の恐れを感ずる様に見える。真逆(まさか)に、其の財産を網守子に取り返されはしないかと、気遣うのではないだろう。
彼は青い顔をして我が家に入ったが、妻添子は留守である。多分新しい幽霊と、何か交渉する為に出て行ったのであろう。机の上には、早や新しい幽霊から送って来た原稿と思(おぼ)しく、様々の書類がある。此の向きならば、雑誌の編諿(へんしゅう)は自分よりも妻添子の方が適任らしい。多分添子の手で何事も予期の通り運ぶで有ろうと、彼は結句荷を卸した様な気がした。
彼は其のまま部屋の片隅に腰を卸し、深い溜息を発して考え込んだ。時々は独語の様に口が動く。
「アア是が運と云う者だろうか。余りに不思議だ。アノ綿密な谷川が何うして此の様なーーーイヤ運だ、運だ。何にしても、一旦転がり込んだ者を、今更取り逃がしては成ら無い。
是さえ有れば、先ず処世の苦労は消えた。之を良く利用すれば何の様な名誉でも、何の様な利益でも、アア全く運が向いて来た。そうだ。取り逃がさない工夫が何より先だ。」
やがて思案の定まった様に、彼は次の室(ま)に入った。
ここには古い用箪笥などが置いて有る。前代から伝わった者で有ろう。彼は他人の物をでも、盗むかと見えるほどに四辺(あたり)を憚(はばか)り、幾度か見廻した末に、箪笥の引き出しを開き、彼れ是れと検(あらた)めて、終に一束の書類を取出して、
「アア是だ、是だ。」
と云い、束を解いて、手早く一通一通に検めるのは、古い古い手紙である。凡そ三十分ほども検めて、漸く見当ったと見え、其の中の一通を幾度も読み返し、
「そうだ、祖母の姉妹梅子の縁附いた先は是だ。妙な苗字だなあ、是から直ぐに出張して、仕事をしなければ成らない。」
彼は書類を元の通り箪笥に納め、更に画室へ出て来て、急いで妻添子に当てて置手紙を認めた。其の意味は、
「急用の為地方へ出張するが、事に由れば両三日掛かるかも知れない。けれど心配するには及ばない事なので、留守中を宜しく頼む。」
と云うのである。
彼は直に家を出て停車場に馳せ付けた。丁度目指す汽車の発する少し前である。彼は大勢の人に揉まれて札売り口に立ち、切符を買ったが、彼より二、三人も背後に居た一紳士が、異様に彼の切符を覗き込む。彼が何所にへ行くかと怪しむ様である。けれど彼はそうとも知らず、其のまま発車の方へ歩み行くと、其の紳士も彼の後に附いて来て、軽く彼の肩を叩いた。
彼は宛(まる)で見露(みあらわ)された盗棒(どろぼう)の様に、身震いして振り向いた。
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