simanomusume148
島の娘2 (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
サー・ウォルター・ビサント作 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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(百四十八) 頬から顎に続く髯
多分江南は梅子の証拠を掻き消す為に来たのであろう。彼は悪人の常に用いる手段の通り、変装して居る。
日頃彼は八字髯だけしか無いのに、今は白髪雑じりの頬鬚と顎髯とが緻密に生えて、殆ど顔の全部を覆い、残る上部は黒い眼鏡で隠して居る。
事慣れた人に聞くと、是が変装の中で一番容易な手段だと云う事である。頬から顎まで続いた仮鬘(かつら)を買えば、誰にでも出来るので、更に其の仮鬘(かつら)に白髪が雑じって居れば、若い人も直ぐに五十歳以上には見られる。其れに目までも隠したなら、容易に分かる者では無い。大方、彼はロンドンを出た後に、何所か途中で様々の用意を整えた者と見える。
彼は登記所に入り、戸籍の記録を検めて居たが、やがて目指す所を探し当て、
「古江田利八二女梅子」と云う文字を見出した。
更に此の文字の続きに、路田梨英と云う名の有るのを見るに及び、彼は全く顔色を変じた。けれど幸いに附け髯と黒眼鏡の色までは変わらなかった。
勿論、路田梨英の方でも知らないだろうが、江南の方でも、梨英と遠い従兄弟に当たるとは、今が今まで知らなかったのである。
けれど相手が誰であろうと、遠慮会釈は無い。彼は唯、
「古江田利八の二女梅子」
と云う名を無くせば好いのだ。
彼は手帳を取り出して其のページの上に載せ、宛(あたか)も反対のページに在る人の戸籍を、写して取る様に見せかけて居たが、彼の鉛筆は、尖った刃の付いた針で有った。間も無く彼が登記所を立ち去る時には、梅子の名を記した一枚だけは綺麗に切り取られて、跡方も無く成った。
実に驚くべき大胆な所業であるが、彼は此の手段をワルシーの登記所でも施して来たに違い無い。
憐れむ可(べ)し。彼の競争者である路田梨英は、是で古江田利八の嫡流の曽孫とする道が無くなった。けれどそうと自ら知る筈は無い。
この様にして江南は、直ぐにロンドンに引き返したが、其の同じ汽車に、路田梨英も同じくロンドンまで乗り込んだのは、何かの運命ででも有ろうか。実に奇遇とも云う可(べ)きだ。けれど互いに其れを知らなかった。其れは梨英が三等車に乗った為である。
梨英は、質の田地の上借りをして、僅かばかりの金を得た。果たして其の金で、次の美術展覧会まで身を支えて、大傑作を作り出すことが出来るや否や。自分では大いに不足を感ずるけれど、此の上に金の出来ようが無いので、何の様な倹約をしてなりと、是れで目的を達すると云う決心で、再び都の「鼠の巣」を指して郷里を出た。
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