simanomusume155
島の娘2 (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
サー・ウォルター・ビサント作 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
since 2016.6.4
下の文字サイズの大をクリックして大きい文字にしてお読みください
(百五十五) 爾(そう)とは知らずに
網守子が寒村(サムソン)島へ帰る間際に、一つ気に掛かったのは、路田梨英の行方である。何うか彼が再び尋ねて来るまでは、都に留まって居たいとも思った。けれど其の時は、自分が立った後へ、間も無く梨英が、古江田利八の曽孫であると称して、尋ね来ようとは知らなかった。
多分この次の展覧会には、梨英が自分の作品を出すに違いないから、其の時に再び上京すれば、自然に消息が分かる筈であると思い直し、更に捨部竹里に逢って、若しも梨英の居る所が分かったならば、何事に就けても、出来るだけの助力を与え、又其の旨を直ぐに自分へ知らせて呉れなど、充分な注意を残して立ち去った。
爾(そ)うとは知らずに路田梨英は、考え明かした翌朝に網守子の住居を尋ねた。愈々(いよいよ)網守子に逢った上で。自分の境遇が何の様に成り行くだろうと、様々の予期やら想像やらで、心も良くは落ち着かない程で有ったが、やがて入口で案内を請うと、出て来た女中が、曾(かつ)て取りついた覚えの有る人と知って、女主人の留守である旨を丁寧に告げた。
梨英は一時痛く失望し、或いは再び寒村島へ尋ねて行こうかとも思った。けれど何にしても先ず、其の上の詳しい事を知り度いと、更に問返して、柳本阿一が、留守を預かって居ることを聞いたので、更に阿一に面会を求めた。
梨英は小笛嬢と顔を合わせた事は有るけれど、其の兄阿一の事は知らない。単に網守子の雇人で有ろうかとも思ったが、阿一の方では、妹からも網守子からも度々梨英の事を聞き、不幸なる天才として、兼ねて陰ながら同情を寄せて居たので、殆ど旧友を迎える様に梨英を迎えた。
二人の談話は凡そ一時間にも及んだ。其の間に二人とも深く知り合い、打ち解けた仲と為って、梨英は阿一の片足の無い身に同情して、切に其の戯曲の成功を望み、阿一は梨英の境遇を気の毒に思い、如何に網守子の同情が、其の身に集まって居るかを聞かせなどして、大いに励まそうと務めた。けれど、梨英は、自分が古江田利八の曽孫と分かった旨だけは、未だ何人にも話す可(べ)きで無いと思い、口に出さなかった。
頓(やが)て分かれを告げた後、梨英は、曾て網守子に聞いた事を思い合わせ、兎も角も谷川弁護士に逢うのが好いと決心し、直ぐに其の足で谷川弁護士の事務所を尋ねた。
直接には知らないけれど、谷川弁護士の名誉は兼ねて聞き及んでいる。
幸いに谷川は事務所に居て、梨英の名刺を見るや否や、何だか聞いた事のある名だと思った。実は先頃網守子の部屋の額に、梨英の名の有るのを見て、他の客と其の絵の事を争ったに過ぎない。けれど今は、其の事も思い出すことは出来なかった。
a:420 t:1 y:0