simanomusume158
島の娘2 (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
サー・ウォルター・ビサント作 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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(百五十八) 是は不思議
百円(現在の約十万円)の鑑定料は実に梨英に取っては大打撃であった。彼が辛い思いで作って来た籠城の資金が、大部分消えて了(しま)った。
彼は自分が詰まらない欲心を起こしたのを後悔し、殆ど魂の抜けた人の様にに成って、画室に帰り、独り倩々(つくづ)くと考えた。
けれど思案の浮かぶ余地が無い。何が何でも一心不乱に絵を書く一方である。書いた間に何か収入の道を捜して歩こう。玩弄(おもちゃ)の画でも看板の画でも好い。撓(たゆ)まずに求めれば、広い都に、何か口の無いことも無いだろうと、漸く考え直したのは、もう午後の三時頃であった。
兎にも角にも思案が定まって了(しま)えば、彼は天才の常として、中々楽天的な気風をも持っている。独り愉快そうに、自分の部屋を飾り始めた。大して飾る品の有る訳では無いが、机や椅子や画台などを、其れぞれの場所に配り、丁度、前の「鼠の巣」の通りに、網守子の姿絵を、裏向けて壁に掛けなどした。
「オオ斯(こ)うすれば、元の鼠の巣より幾分贅沢だ。サア是れでもう何の様な大作にも着手することが出来る。」
独り呟いて居る所へ、案内も無しに入って来たのは、谷川弁護士である。梨英は少し顔を曇らせ、
「貴方は何の御用です。」
と丁度谷川が梨英に問うた様に問うた。
谷川は返事もせず唯だニコニコして椅子に腰を卸し、
「先刻貴方が花客(おとくい)として私の事務所を訪(と)うた様に、私も花客(おとくい)として、ここへ来たのです。」
梨「私の居る所が何うして分かりました。」
谷川は梨英の名刺を見たけれど、住所を記して無いので、色々考へた末、網守子の留守宅を尋ねて、柳本阿一に聞いたのである。爾(そう)して更に先の夜、捨部竹里が梨英を友人だと云った事を思い出し。竹里にも逢って梨英の貧乏な境遇や、正直な気質などを聞き、少なからぬ同情の心を起し、実は鑑定料を返した上に、出来る事なら、多少の援助をも与え度いと云う様な積りで来た。
「ハイ、私は柳本阿一に逢い、貴方の住所を聞き、捨部竹里にも貴方の事を聞きました。」
梨「何にしても、私は長くお話しなどする時間の無いことを恐れます。」
谷「貴方は画工で有りながら、画を買いたいと云う花客(おとくい)を追い払うとは、中々贅沢ですねえ。」
梨「私の画は誰も買って呉れません。」
谷「私が買い度いのです。私は無名の画家、イヤ青年画家の画を集めるのが道楽です。」
梨「私は全く無名の画家です。」
谷「無名でも今に有名に成りましょう。」
此の様な言葉は梨英に取って嬉しく無い訳では無い。彼の心は少しづつ解け始めた。
「本当に貴方は私の画を買いますか。」
谷「ハイ買い度いのです。」
梨英「是れは不思議、是れは不思議」
と独り笑った。
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