巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

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島の娘2    (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

サー・ウォルター・ビサント作   黒岩涙香 訳  トシ 口語訳

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       (百七十七) 尤も千万な問題

 

 荒れに荒れ、狂いに狂い、次には悪口の続く丈添子を罵倒した江南は、次第次第に罵(ののし)りも尽くして、聊(いささ)か神経が弛んで来たと見える。斯(こ)うなると、今まで唯腹立たしくのみ感ぜられた自分の大損失が、更に情けなくなって来る。丁度苦い物を口の中に入れられた人が、最初には大騒ぎして、殆ど夢中に吐き出すけれど、吐き出して、扨(さ)て我が心の落ち着いた後に、益々苦さが分かって来て、殆ど耐え難くなるのと同じ様な理屈では無いだろうか。

 彼は浸みじみと、情け無さ、悲しさが込み上げて来て、自分は何故に此れほど不運で有ろうと疑い、果ては泣かずに居られ無くなった。三十男が、声を放って泣くなどとは、爾(そ)う度々有る事柄では無いけれど、何うかすると、人生には泣くより外に慰藉(なぐさめ)の無い嘆きが有る。例之(たと)えば愛子を失なったとか、父母に死なれたとか云う様な場合が其れである。

 今、江南に取っては百萬円と云う大金が、父よりも母よりも子よりも可愛いい、其れを不意に失った為、彼は殆ど父と母と子とに、一時に死なれた様にでも感じたと見える。彼は椅子に身を置き、自分の前に在る卓子(テーブル)に顔を埋めて声高く泣いた。
 次には其れが咽(むせ)び声と為り、又次には啜り泣きと為った。

 幕の外から此の声を聞いて居た正直な保津老人は、只管(ひたすら)に呆れて、もう愈々(いよいよ)暇を取る外は無いと決心した。
 其れでも添子のみは、感じも無い様子である。先刻から江南の方を見向きもせず、声をも発しない。是は感じの無い訳では無い。実は力が尽きて茫然としたのである。
 其れでも添子の方が、江南よりも早く心を取り鎮めることが出来て、我に帰った。

 是より幾時の後、早や日も暮れ、部屋の中が殆ど真っ暗になった頃、添子は静かに立って電灯の釦(ボタン)を捻(ひね)り、まだ泣き伏した儘(まま)で居る江南の肩に、優しく手を置き、
 「貴方、貴方、何時までも此の儘では居られませんよ。」
と云った。江南も漸く顔を揚げた。添子は更に悲しみを帯びた声で、

 「私は、今まで何うか貴方の愛を得たいと、其れのみを心に祈って居たのです。先日あの四萬円のお金を持って帰って以来、幾分か貴方に愛せられる様に思い、ヤレ嬉しやと安心する間も無く、此の様な事に成りました。もう此の後に何の様な事が有らうとも、貴方が私を愛して下さる筈も無く、又私も貴方に愛想が尽きましたから、愛せられ度いとは思いません。此のままお別れに致しましょうか。其れとも仲を直して、世間体だけ矢張り仲の好い夫婦と見せ掛けて世を送りましょうか。」
と尤(もっと)も千万な問題を持ち出した。


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