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島の娘2 (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
サー・ウォルター・ビサント作 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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(百八十四) アア傑作
江南の去った後に、谷川弁護士は独り倩々(つくづく)と考えて、
「アア江南は感心な正直だ。時価六十萬円(現在の約6億円)以上の宝を、一旦我物と思った後で、アノ通り吐き出すとは、今時の人に出来ない事だ。先日は路田梨英の断念(あきら)めの早いのに敬服したが、江南は殆ど梨英よりも以上だ。尤も両人とも似寄った天才で、似寄った絵を書くだけに、無欲な点も似寄って居ると見える。」
などと呟(つぶや)いたが、何にしても二女と三女が間違って居たと分かれば、是から其の間違いの出処を、取り調べて見なければならない。
其の為に谷川は、古江田利八に関する書類の原本を持って居る同業へ、此の日の中に交渉を始めた。
数日の後に漸く調べが終わり、全く二女梅子、三女竹子、と言う順序であるのに、幾度か謄写せられる間に、誰かが梅子竹子と云う名に釣り込まれ、竹子を二女、梅子を三女と誤記して、其の過ちが、谷川の持って居る写しへも伝わった者と分かった。
こう分かると取り敢えず谷川は、路田梨英に知らせるべきで有ると思い、再び彼の画室を尋ねて行ったが、此の時梨英は書き懸けた「古い家庭」の絵に対し、殆ど一生懸命の様で、筆を振るって居て、自分の部屋へ他人の入って来たのにも、気が附かない様に見えた。
今更の様に谷川は、梨英の筆の早いのに驚いた。画面はもう出来上がって居る様に見えるけれど、当人には爾(そう)でないのか、加筆しては見直し、見直しては又加筆するなど、全く丹精を凝らして居る。
谷川は無言で立って見て居る中に、画面の中に確かに生気の動いて居る様に感じたので、思わずも、
「アア傑作だ。」
と呟いた。此の声が耳に入ったか、梨英は静かに筆を置いて、
「先刻から貴方の来たことは知って居ましたけれど、丁度筆を離されない所で有る為失礼しました。」
と謝した。
其の物言いも容貌も悠(ゆ)ったりと寛(くつろ)いで居て、先日見た奇人とは思われない。多分は美の神に崇(あが)められて、心に希望が満ちたものと見える。谷川は自分が来た用事を忘れたのでは無いけれど、
「貴方は何と云う天才でしょう。此の様な手腕を以って、今まで名の聞こえて来ないのが不思議です。」
梨英は笑って、
「次の展覧会に及第しましょうか。」
谷「無論でしょう。全体貴方は誰に絵を習いました。」
梨「数年前に、王国美術院を卒業しました。学窓に居る頃は、学友も沢山有りましたけれど、其の後は不幸続きで、懇意な人にも忘れられました。」
谷川は思った。画風は江南と同じで有るけれど、決して江南の弟子では無く、江南の下で無い。又江南の云う様な妄想家でも狂人でも無い。唯画風が余り似て居る為、互いに嫉(ねた)み合って、人格をまで悪し様に思うのであろう。
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