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島の娘2 (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
サー・ウォルター・ビサント作 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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(百九十六) 疑う余地が無い
梨英と網守子から電報を受け取った谷川弁護士は、何時でも紅宝石(ルビー)を、売ることの出来る様に手配りして置く為め、直ちに宝石商を呼び寄せた。
けれど果たして谷川の金庫の中に、其の売るべき紅宝石が、今も無難に存して居るで有ろうか。愈々(いよいよ)売ると為った時に、若し実物が、偽物と代わって居る様な事が有ったならば、谷川自らが、非常に迷惑な地位に立つことと為りはしないだろうか。けれど勿論、此の様なことは、思いも寄る筈が無い。
呼び寄せられた商人は、曾(かつ)て紅宝石をば、責任を以って綿密に鑑定した其の当人である。谷川は先ず問うた。
「曾てお目に掛けた紅宝石を、愈々売る時機とは為りましたが、今の相場は何うで有ろう。」
商人A「お売りなさるなら、今が好い時で有ろうと思われます。総て宝石類は、騰貴する一方で有りますが、中でも紅宝石(ルビー)は品払底の為に、あの頃から見ると三割以上も騰貴して居ります。」
谷「貴方の方で引き取ると云う、実際の値段を明らかに知らせて貰い度い。」
商人は携えて来た鞄(かばん)の中から、一通の書類を取り出して検めた。此の書類は、曾て鑑定した時の記録で、一々に宝石の形を実物大に写し、其の匁方(めかた)性質を詳しく記してある。彼は、一個一個を、非常に慎重に計算して居たが、
「七十二万円(現在の約7億円)であります。」
と答えた。
谷「其の値段ならば、今日と云って、今日直ぐに売買が出来るで有ろうか。」
商人「何分大金の事でありますから、今日引き取ることは出来ませんが、併し此の中から、私共に三分の一だけ選り取らせて下さるならば、今日中にお買い受け致します。」
谷「イヤ、三分の一では無い。残らずを一時に引き取って貰い度い。」
商人「残らず引き取るには、以前から私共と助け合って居る、同業が有りますから、其の中の幾人と連合して買受ます。何うか其れ等の同業と打ち合わせるだけの、猶予を戴き度い。」
谷「其れは宜しい。実は此の品の持ち主が、今地方に居て、何時でも売り払うことの出来る様に、手配を附けて置いて呉れとの、依頼であるから。」
商人「同業との打ち合わせの、調(ととの)い次第に、其の旨を申し上げます。」
更に多少の問答は有ったけれど、話は全く決まって、商人が分かれ去ろうとすると、谷川は思い附いた様に、
「同業との相談に、見本として実物を持って行く必要は有りませんか。」
商人「私の此の鑑定書の写しが有れば、玄人には実物も同様です。此の次には同業の一人を引き連れて参りますから、其の時に実物を示します。」
と云って分かれ去った。
実を云うと、今ここで実物を見た方が、双方の為で有ったかも知れない。けれど双方ともに、疑念など起こす余地が無かった。
注:72万円を現在の約7億円としたのは、この翻案当時(大正2年)の一円を今の1、000円と見積もった額。「yahoo 知恵袋」を参考にしました。
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