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島の娘 (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
サー・ウォルター・ビサント作 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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(二) 沖へ沖へ
帆も櫂(かい)も無い小舟に乗り、沖へ沖へと吹き流される彼の両人(ふたり)は何者であろう。多分は他の土地から見物に来た旅客で、此の海上の危険極まることを知らないのであろう。
如何に浪風穏やかな日と雖も、引き汐の折には島と島との間に幾ケ所も早瀬が有り、大なる渦が有り、無数の暗礁が有り、生きて帰ることの出来ない難場が数え切れない程である。少し風が出れば岩と岩の間の浪が、打ち合い叩き合い、今見る様な小舟は瞬く間に覆(くつが)えされ、岩の牙に砕かれる。
土地の人と雖も折々は難船破船、溺死等の禍いを免れないのに、今は彼等二人が其の様な難場へ持って行かれつつある。
遥かに彼等の様を見る網守子の眼は、幼い頃から海上の眺めに慣れ、殆ど望遠鏡の様に良く見える。小舟は入残る夕日を浴びて一マイル(約1.8km)ほどの沖合に在るが、中に居る二人は悶(もが)いて居る様子も無い。
「早く助けなければ。」
と網守子は叫び、岩から走り降りて家の横手に行き、
「子供!子供!」
と呼んだ。
「何だよ、嬢様」
と問返しながら現れたのは、頭に白髪の交じった五十余歳の例の「子供」である。彼は網守子に引かれて行き、岩の上から彼の小舟を眺めて、
「フム、都から来た旅人だろうよ、馬鹿な、舟一隻台無しにして了(しま)うわ。」
彼には人命より舟が貴いのか、彼は無言で、のそのそと海の方へ降りて行く。
彼より先に網守子が水際に降り、繋(つな)いである舟を解き、軽くひらりと飛び乗って、櫂(かい)や帆や綱や燈火(あかり)の用意をする。
頓(やが)て「子供」は、宛(あたか)も自分が主人である様に、用意の出来た舟へ無言で乗り、無言で帆を揚げた。彼は無言であるけれど何も彼も分かって、間違いの無い男である。
「サア櫂を」
と言って網守子が一挺は自分で漕ぎ、一挺を差し出すと、
「櫂に及ばぬ。帆の無い舟より帆を揚げた舟が早いわよ。」
と落ち着いたものである。
網守子「でも人の命が危ないのに」
彼「今から躁(あせ)って、身体を疲れさせては、卆(おえ)ねいだよ。帰りは汐も風も逆だからよ。」
動ぜざること山の如しとも云い度い。
彼は流れ行く小舟を見遣り、
「アア、隣島の甚太が舟だ。奴め欲張って旅人に舟を貸すから。今より十七年前にも一艘砕かれてしまった。」
網守子「其の時に乗って居た人は」
彼「其の時は三人だったが三人とも綺麗に死んだわよ。」
先の舟は、地獄の瀬戸と呼ばれる大難場の方へ、益々接近する。此の辺りは、もう潮の流れが余ほど激しい。此方(こちら)の舟も大いに接近したけれど、日が入り果てて、少し見分け難くなった。其の中に彼等も身の危険に気付き、慌(あわ)ただしく悶(もが)き始めたと思われたが、暫くすると黒い波の畝の彼方から、
「助けて!助けて!」
との声が聞こえた。
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