simanomusume206
島の娘2 (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
サー・ウォルター・ビサント作 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
since 2016.7.25
下の文字サイズの大をクリックして大きい文字にしてお読みください
(二百六) 挨拶の声も出ぬ
網守子が、谷川の許を出たのは、もう夜の六時過ぎであった。直ぐに馬車を呼んで乗り、江南の画室を指して急がせた。
馬車の中で小笛に、先に帰れと云ったけれど、小笛は網守子が単身で江南に逢うのを、何だか心配で仕方が無い事の様に思い、
「イイエ、私が居ても何のお役にも立ちませんけれど、何うぞお供をさせて下さい。」
と言って、網守子の傍を離れなかった。
実に網守子は大胆である。今の場合は成るほど、蛭田江南を攻めて、白状させる外は無いとは云え、何一つ証拠を握って居る訳では無い。唯色々の事情から考えて、江南の仕業に違い無いと想像するだけである。其れで何うして江南を白状させることが出来よう。
而(しか)も其の想像と言っても、何から何まで行き届いて居るのでは無い。例えば江南が、自分から第三女の孫だと言い出し、紅宝石(ルビー)を辞退した事柄などは、未だ網守子にも合点が行かない。考えれば考えるほど、谷川の言った通り、江南の仕業では無様にも思われて来る。
若しも江南が、唯一言に否定したなら、網守子は何うするであろう。
又若し、嘲(あざけ)って、相手にしない様な態度に出られても、仕方が無いでは無いか。
けれど網守子には、梨英を信ずる一心で、梨英がしないから、江南がしたに違いないと、思い詰めて居る。
其れに今まで、梨英の災難が、総て江南から出て居ると思うと、今度の災難も、唯江南の仕業に違い無いと思うのである。只是だけで、少しも人を責める証拠とは成って居ない。とは言え網守子の心には、露ほどの弛みも無く、熱心に満ち満ちて居る。
他の人ならば、たとえ百の証拠が揃ったとしても、是ほどの熱心は出ない。
間も無く江南の住居に着いた。案内も請わずに玄関の廊下に上ると、先頃大斧で叩き破った戸は、新たな戸と代わって居る。先ず此の戸を軽く叩き、内より返事の声も聞こえないのに、推し開けて中に入った。
中は曾て江南と推し問答をした広い画室で、梨英の書いた波の絵も、其のまま一方に置かれてある。見れば誰も居ない。
「蛭田さん、蛭田さん。」
と網守子の冴えた声が響くと共に、次の室(ま)から飛び出たのは江南の妻添子である。
実に添子は驚いた。網守子と小笛との姿を見詰めたまま、進みも退きもしない。挨拶の声も出ない。無理も無い。自分の身には、紅宝石を盗んだと言う恐れが有って、たとえ露見の気遣いは無いと夫江南に対しては言い切ったにしても、不意に其の持ち主の網守子が現われるに会っては、一時に度胸を失ったのである。
a:377 t:1 y:0