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島の娘 (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
サー・ウォルター・ビサント作 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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(二十二) 是より都の巻
網守子は島を出た。
勿論、容易な事では無かったけれど、一念こうと思い込んだら、思い留まる様な気質では無い。
先ず隣島に、永く住む宣教師に縋(すが)り、其の人の同情で、信用深いロンドンの弁護士に宛てた紹介状を得、其れを持って都に出た。
* * * * * * * * * * * * *
今迄は島の巻であった。是よりは都の巻である。
ロンドンに寒村家(さむらけ)の遠い親類がある。是は幾代前に寒村家の次男が、海軍の士官と成って都に移り、勲功の為に男爵を授けられ、其の子孫が同じく寒村の姓を名乗って、名誉をも財産をも積み、中流の社交界に、少なからぬ勢力を占めて居る。今しも家の主婦人と、当年二十五歳になる娘藤子とが、密々(ひそひそ)相談しつつある。
藤「網守子とは珍しい名前ねえ。家の先祖が出た島でも、貧乏人ばかり住んで居る所と聞きますのに。」
母御「でも谷川弁護士ほどの人が、立派な財産と云うからは、満更でも有りますまい。」
藤「内輪だけの晩餐へ招くのは好いけれど、其の後で、多くの来客の中へ出すのは何(どう)でしょう。何も知らない島の娘では。」
母「そうねえ。私も心配には思うけれど、谷川弁護士の頼みゆえ。」
云う折しも、谷川弁護士と云うのが案内せられた。年は六〇歳ほどで有ろう。一見して尊敬すべき風采の、而も気の軽そうな人である。一通りの挨拶を終えて、
「ハイ当人は、程なく丁年に達しますが、其れまでは私が後見同様に、財産其の他一切の監理を、引き受けて居ますので、もう婚期も近く、成るべく交際の道を開いて遣らなければと思いまして。」
藤「島の娘でも、一通りの教育は。」
谷「イヤ感心な令嬢ですよ。最近五年間、第一流の教師に就き。」
母御「何処でです。」
谷「伊太利(イタリー)、維也納(ウエーン)、巴里(パリ)などで」
地名だけでも保証の様に聞こえる。
藤「其の様に広く?」
谷「ハイ、孰(いず)れの地に於いても、尋常の学校とは違い、特別の保護者の許に、特別の師に就いて、殆ど昼夜を分かたぬほど勉強し、総て最優等の成績を得て居ます。」
母御は嬉しそうに、
「そう聞けば安心しました。」
藤「私もその様な従妹ならば、人に誇りますわ。」
谷「最近では、巴里の某貴婦人の私邸に客分と為り、一か月前に此のロンドンへ来ましたけれど、宿屋住居ではいけませんので、家を借りたり、侍女や侶伴(リョハン)を雇うなど、漸く落ち着きましたので、今夜初めて社会へ紹介せられるのです。」
家と云い、侍女と云い、其の上に侶伴までも雇うとは、大抵の令嬢には出来ない贅沢である。母と娘が、驚きも喜びもする所へ、
「寒村網守(さむらあもり)嬢」と云う名が、取り次がれた。
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