simanomusume229
島の娘2 (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
サー・ウォルター・ビサント作 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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(二百二十九) ゴムの臭気
自分の保管して居た紅宝石(ルビー)に、何事も間違いの在る筈は無いと、谷川は難(かた)く思い詰めて居る。勿論思い詰めるのが当たり前であるけれど、両商人の様子が、余り激しいので、再び問うた。
「何う品物が違って居ると云うのです。先ず詳しく説明して下さい。」
立ち掛けて居た乙商人は、何やら自分の衣嚢(かくし)を忙しそうに搔き探りながら腰を卸した。
甲商人は落ち着いた態度で、
「私の作った此の鑑定書で、お引き合わせ成されば分かりましょう。第一に形が一致しないでは有りませんか。第二には大小も違いましょう。第三には数も。」
成るほど爾(そう)である。形が一々引き合すことの出来ないほど違って居るらしい。けれど谷川は未だ納得することが出来ない。何しても品物の違う筈が無い。鑑定書と実物と合わないならば、其れは鑑定書の間違いであろう。実物の間違いでは無いとほどに思う。
「形や大きさが一々は一致しないとしても、値段は何うです。売り買いの要領は値段に在ります。私は素人ゆえ、貴方がたと争うことは出来ませんけれど、先刻仰(おっしゃ)った七十五万円が、幾等欠けると云うのですか。」
甲「イヤ値段には成りません。是は紅宝石(ルビー)では無いです。」
谷「エ、紅宝石で無い?」
是が紅宝石で無いと、谷川は何うして信ずることが出来よう。如何に見ても紅宝石である。谷川は専門家では無いけれど、磨かない紅宝石を見たことは幾度も有る。素人として、幾分か其の方の知識も富み、眼も肥えて居る方である。其の肥えた眼で見て、是が紅宝石であることは、明らかである様に思われる。だからと云って、真逆(まさか)に、此の商人が、真の紅宝石を紅宝石で無いと云い、今更ら其の値打ちを踏み倒そうとする筈も無い。
両商人は殆ど一斉に
「ハイ、是は決して紅宝石で有りません。」
谷「紅宝石で無ければ何ですか。」
甲商人は気の毒げに、
「誠にお気の毒ですが、全くの贋物です。練り物です。」
谷「練り物?練り物?此の紅宝石が練り物?其の様な筈は無い。」
甲「イエ、数年前から出回って来て居るのです。最初は玄人(くろうと)さえも騙されました。」
先ほどから衣嚢(かくし)の中を探って居た乙商人は、探し当てた様に燐枝(マッチ)を取り出し、
「焼いて見れば誰にも分ります。」
谷「焼いても焼ける筈は有りません。」
乙「此の一個を焼いても宜しいですか。」
谷「お焼き成さい。」
直ちに乙商人は、一個を取って燐枝(マッチ)の火に翳(かざ)した。焔(ほのお)の力に、其の一個は沸いて泡を吹き、直ちにゴムの臭気が、一同の鼻を衝(つ)いた。
最早や疑いを容れる余地が無い。
七十五万円の紅宝石が、全くゴムの贋物と摺り替えられた。
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