simanomusume239
島の娘2 (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
サー・ウォルター・ビサント作 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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(二百三十九) 立ち聞きでは無く
保津老人とは何者であろう。谷川は少し考えたけれど、心当たりが無い。けれど弁護士と云う職業は、人に会うのを怠っては成らない。直ぐに自分の部屋に通した。
入り来る顔を見ると、確かに初めて会う人では無いが、何所で逢った人か、良く思い出さない。
年は六十歳をも越えたかと思われる老人である。
老人は恭(うやうや)しく立った儘(まま)で、
「以前から、貴方にお話ししなければ、済まない様に感じましたけれど、今までは無言で居ましたが、今日は新聞を見て、路田梨英と云う者の事が出て居ましたので、或いは愈々お話ししなければ成らない時だろうと思いまして。」
路田梨英の事に就いてならば、全く耳よりな事柄である。
谷「好く来て下さった。詳しく聞きましょう。が貴方は何方でしたかねえ。」
老人は、
「私はこの一年の間、蛭田江南の家に雇われていまして、先頃暇を取った保津と云う者です。」
成ほど爾(そ)うだ。爾う云われれば、明らかに思い出した。今まで蛭田江南の家へ行く度に、此の老人が取次いだのであった。
「オオ、爾でした。先ずお掛け成さい。」
老人は漸く腰を卸して、
「私が申し上げるのは、人の秘密で有ります、他人の秘密を口外して好いか否か、甚だ迷いますけれど!」
谷「私は弁護士です。弁護士に対しては何事をでも打ち明けるべきです。打ち明けても、決して第三者に洩れません。」
老「其れに、若しや他の人が迷惑して居はしないかと思いまして。」
谷「サアお話し成さい。」
老「私は決して戸に耳を当てて、立ち聞きなどした訳では有りませんが、あの家の戸が破れて居まして!」
谷「あの家とは。」
老「蛭田江南の家です。ハイ其の戸の破れた時にも、正しい家柄にあるまじき椿事《変わった出来事》だと思い、直ぐに暇を取る心が起こりましたけれど、思い直して留まりました。其の戸が取り外されて、幕と成って居ました為め、玄関に番をして居る私の耳へ、部屋の中の談話(だんわ)が自然と聞こえたので有ります。」
谷「何の様な談話(はなし)が。」
老「少し声の高い話は、大抵聞こえましたが、其の中でも、贋の紅宝石(ルビー)に関する話は、時々に、ズッと離れた所へまでも聞こえるかと思われる程の、高い声と為りました。」
贋の紅宝石!贋の紅宝石!!
今の谷川に取って、此の言葉ほど痛切に耳を打つ言葉は又と無い。
「エ、エ、贋の紅宝石?」
老「ハイ爾(そう)です。最初江南は、何処か田舎へ旅行し、帰って来て、百万円長者に成ったと云い、大層喜んで居ましたが、頓(やが)て妻添子から、誰かの財産が転がり込んだのかと問われるに及び、寒村網守子の紅宝石が、我が物に成ったと答えました。」
谷川の顔は非常な熱心を帯びて来た。
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