simanomusume28
島の娘 (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
サー・ウォルター・ビサント作 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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(二十八) 僕は馬鹿だ、僕は馬鹿だ
「貧!」
人に隠すことの出来ないものは、貧である。
誰も、自分の貧を、見せびらかす人は無いけれど、貧は顔にも現れる。姿にも現れる。言葉にも、行いにも、着物にも、履物にも現れて、一目に其れと見て取られる。
今入り来った路田梨英が其れである。彼の身は、頭の帽子から足の靴に至るまで、其の貧に窶(やつ)れて居る。
若し人が蛭田江南に向かい、
「君の画室へ、何故あの様な貧乏人が出入りする。」
と問えば、江南は極めて自然な面持ちで答える。
「成功した芸術家は、失敗した学友の無心を、逃れることは出来ない。」
此の返事を聞く人は、江南を慈悲深い男として感心する。
梨英は悄々(すごすご)として入って来たが、江南の眺めて居る画面を見ると、忽(たちま)ち我を忘れた様に、ツカツカと其の前に歩み寄り、
「オオ、良く出来たなア、鼠の巣の様な狭い画室で書き上げた時は、是れ程とも思わなかったが、此の立派な画室へ持って来ると、自分でも見違えるほど引き立つわ。」
江南は叱る様な語調で、
「路田君、何を云うか。」
梨英は恨めしそうに、
「誰も聞く人が居やア仕まいし、少しの間僕に僕の画を賞鑑させて呉れたって、好いでは無いか。」
彼は宛(あたか)も、自分の子にでも廻り逢った様に、殆ど夢中である。
江南「鑑賞したいなら、無言で鑑賞したまえ。壁に耳ありの譬えぢゃ無いか。若し秘密が漏れたなら、君は糊口の道も無いぜ。」
梨英は此の言葉が耳に入らない。
「アア良く出来た。この様な傑作へ、自分の名を署することが出来ず、蛭田江南と云う名を記さねば成らない。蛭田君、僕はもう四年来の契約が辛くなった。何とかして僕の名も、少しは世間へ出るようには出来ないだろうか。」
江南は冷淡に、
「今更其の様な工夫は無い。」
梨英は自分の身を恨む様に、殆ど泣き声と為り、
「アア僕は馬鹿だ。僕は馬鹿だ。」
江南「其の様に言いなさるな。同じ絵画でも、蛭田江南と云う天才の仕上げが加わるから引き立つのだよ。傑作と不傑作の区別は、唯僅かの仕上げに在るのさ。」
此の語を聞いて梨英は、憤然として江南の前に突っ立ち、
「其れは君、暴言だ、暴言だ。君が此の画の何処を仕上げたか。君は僕の絵に、蛭田江南と云う姓名を書き入れる外に、何が出来るか。」
江南は取鎮める態度と為り、
「僕が仕上げたと云うのは、僕の署名を以て、画面に信用を加える事だよ。君は幾ら絵が上手でも、行いに信用が無いから。」
梨英は更に怒りの態度を加へ、
「僕の行いに信用が無い?何時僕が信用の無い様な行いをした。僕は信用を重んじて居る。君の様に、世を欺く事は嫌いだ。それを君は不信用と云うのか。」
殆ど飛び掛からんばかりの権幕である。
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