simanomusume30
島の娘 (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
サー・ウォルター・ビサント作 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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(三十) 女詩人柳本小笛嬢
何と云う奇妙な契約であらう。梨英が絵を書いて、江南の許に送ると、江南が自分の名を書き入れ、自分の作品として売るのである。是が為に江南は、当世有数の大画家と云われ、梨英の方は少しも世間に知られて居ない。
売った代価は、山分けと云う約束であるけれど、大部分は江南が着服する。今更梨英は、此の約束を破ることが出来ない。梨英の自作としては、却(かえ)って偽物と疑われる。
けれど江南の為に、この様な約束の犠牲と為って居る者は、梨英一人で無いと見える、梨英が立ち去ると間も無く、取り次ぎの老人が又抜き足で入って来て、恭(うやうや)しく低い声で、
「柳本小笛嬢が参りました。」
直ちに通された柳本小笛嬢と云うのは、痩せた姿に、安物ながら、垢の付かない着物を清(さっぱ)りと着て居るが、多分田舎者で有ろう。今の世には珍しい、羞(はに)かみ勝ちの女である。年は二十四、五歳、前額が出て、眼が丸い。
彼女は正面から江南の顔を見ること出来ない。田舎出の女学生が、蛭田江南の様な、当世第一流の大家の前に出るのは、身分不相応の光栄である。彼女は丸い目を伏し目にして、
「詩が出来ましたので、持って参りました。」
と云って、丁寧に認(したた)めた、薄い詩稿を差し出した。
江南は受け取って披(ひ)らいて読み、
「アア是ならば、私が少し仕揚げを施せば、誌上に載せることが出来る。サア原稿料。」
と云って、五円(今の約5千円)の金を与えた。小笛は受け取るのさえ極まり悪そうに、
「私は自分の作った歌が、活字で印刷せられ、雑誌の紙上に現れたのを見ますと、嬉しくて朝から晩まで読み返します。毎号載せて下さる上に、此の様に報酬まで戴いては済みませんけれど、何分にも、先日も申し上げた通り、兄が片足無くした廃兵だものですから。」
江南「分かって居ます。分かって居ます。したが其の兄さんが、久しい以前から筆を執って居ると云う戯曲は、もう脱稿しましたか。」
笛「兄は幾たび書き直したか知れません。それはそれは良く出来て居まして、私などは、今迄の芝居に、是ほど面白いのは無いと思います。漸(ようや)く昨日から、清書に取掛かりましたけれど、芝居の座主を知って居る訳では無し、本屋にも知り合いが無い。何して世に出さうかと、酷(ひど)く心配して居ます。」
江南の眼には、其れをも我が物に仕たいと云う様な、貪欲の光が輝いたけれど、直ちに何気ない様に返り、
「清書が終われば、私が一応見て上げましょう。愈々(いよいよ)世に出せる品なら、世に出す道も開いてあげましょう。」
小笛は嬉しそうに、
「兄がそう聞けば、きっと喜ぶことでしょう。」
と深い感謝の意を述べたけれど、猶(ま)だ何事か言いたい事が有る様で、モジモジして立ち去ろうともしない。
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