simanomusume32
島の娘 (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
サー・ウォルター・ビサント作 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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(三十二) 江南と添子
今は社交季節の初めである。家の外には寒い冬の風が吹いて居る。無精な人は、家に籠って炉の前に身を置きたがる。
網守子の侶伴初島未亡人添子が其れである。彼女は読み掛けたフランスの小説を脇に置き、未だ日の暮れるのには、間があるけれど、温かい炉の前に居眠って居る。折しも下女が、名刺を持って来た。その面には蛭田江南とある。
「此の部屋へ通してお呉れ。」
と言って召使を去らせ、急に添子は頭を撫でたり、服装を整いたりなどした。
間も無く入り来た江南は、四辺を見廻し低い声で、
「貴女独り?」
と聞いた。
「誰も居ません。若し人に来られて悪いなら、戸の鍵を下ろして置きなさい。」
と答える様は、余程打ち解けた間と見える。けれど江南は戸に鍵を下ろすまでに用心はしない。其のまま添子の傍に差し寄り、矢張り他に聞かれるのを恐れる様な低い声で、
「今度の奉公は安楽だろう。」
「何不自由の無い位置ですもの、安楽には極まって居ますわ。けれど貴方の妻でありながら、初島未亡人などと、好い加減な姓を名乗って、後家さんの真似ばかりして居るのは、随分気骨ですよ。僅かに三年でも四年でも、舞台で稽古した覚えが有ればこそ、出来る様な者の、唯の女ならば、直ぐに化けの皮が現れますわ。」
江南は妙に優しい口調と為り、
「和女(そなた)に、何時までも苦労を掛けては済ま無いけれど、全くの所、知っての通り・・・・・。」
親切に言われると、直ぐ弱くなるのは、流石に女である。
「なに、辛くとも、貴方の為なら辛抱しますよ。辛抱はしますがね。」
江南「そう言って呉れるのは有難い。シタがもう先日頼んだ通り、大凡そ財産の額は探っただろうね。」
添「ツイ一昨日か、谷川弁護士が報告に来ましたから、大抵立ち聞きしました。五年前に四十万円(現在の約4.1億円)の金貨を、島から取り寄せましたとさ。」
江南「ナニ、四十万円の金貨、そんなに沢山。」
と江南の眼は光った。
添子は少し笑談(じょうだん)の様に、
「アレ、眼を光らせてさ、貴方はインスピレーションとやらを得ましたか。四十万円と云う詩でも作ったら何(どう)です。」
江南「馬鹿ッ、舞台の真似などする場合では無い、其れから何うした。」
添「お聞き成さいよ。其の金貨は孰(いず)れも古代のもので、中には十円が二十円に売れるのも有り、今のお金に引き替えて六十万円以上」
江南「其の金が今でも有るのか。」
添「先(ま)ア急がずにお聞き成さい。、銀行へ預けた利子だけが、五年間に十万円以上積り、年々三万円づつ使うなら、元金へ手を附けずに、幾等づつか殖えて行きますとさ。」
江南「其れ程とは思わなかった。」
添「イイエ、其の外に古代の宝物が沢山あって、谷川弁護士は云いましたよ。『貴女は確かに四百万円(現在の41億円)以上の長者』ですって。」
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