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島の娘 (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
サー・ウォルター・ビサント作 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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(四十一) オオ此の画は!
「路田梨英!」
と網守子の口を衝き出た声は、高くは無かったけれど、梨英は顔を挙げ、
「ヤ、ヤ、網守子」
と言い、跳ね起きる様に椅子を離れ、全く何も彼も忘れた様に、両手を広げて網守子の方へ一歩進んだが、忽ち呆れた様に、又度胸を奪われた人の様に、背後様(うしろざま)に踉(よろ)めき、唯眼ばかり丸く開いて、網守子の顔に引き付けられたまま、椅子の上に尻餅をつき、開いた口に譫言(うわごと)の様に、
「網守子、網守子、網守子」
と三度び呼ぶ声が、一度一度に、次第に弱くなり、後は喘(あえ)ぐ様に息を吐くだけである。
いとしさと憐れさに満ちて居た網守子も、此の様を見て、何だか恐ろしい様に感じ、部屋を逃げ出そうとしたが、直ちに気を取り直した。更に見ると寰(やつ)れた顔、変わり果てた姿が痛々しく目に映り、深い同情が胸に湧き、我知らず、
「梨英、梨英、網守子が逢いに来ました。」
と叫んだ。梨英は未だ椅子を離れない。
「オオ網守子さん、貴女は天から降りましたか。何して私の居る所が分かりました。」
網守子「捨部竹里に捜して貰いました。竹里は色々尋ねて、偶然に、貴方が此の家へ入るのを見受けた人に、出合った相です。貴方は其の後、何うしました。今何うして居るのです。」
梨英は、少し声が落ち着いたか、冷ややかな声で、
「何うして居る?ハッハッハッ」
と笑い、
「問わなくても、此の立派な画室を見れば分かりましょう。贅沢な部屋、贅沢な家具、立派では有りませんか。新聞紙を見ても、雑誌を見ても、大画家として路田梨英の名が雷鳴の如く轟いて居るのでしょう。」
と自分の身を嘲(あざけ)って止まない。
何と言う悲惨であろう。
網守子は、思わずも、
「貴方は変わりましたねえ。」
と、声を洩らしたが、直ちに気が附き、引き立てる言葉を以て、励まして遣らなければ成らないと思い、
「貴方の書いた絵を見せなさい。」
と云い、部屋の中を見廻した。
網守子は、パリでもウィーンでもローマでもフロレンスでも、多くの画室を見たが、画室には幾枚かの画が有るに決まって居る。此の画室には其れが無い。今書き掛けたのは、未だ画の形が現れては居ない。壁に懸かった一枚は裏向きに成って居る。ツカツカと其の方に歩み、裏向きを引き起こして見て、
「オオ是は」
と言う声も曇った。全く是は自分の絵姿である。五年前に分かれる前日、自分を王様の姫君に見立てた理想画であると言い、自分を岩の上に立たせて書き上げた其の絵である。
「オオ貴方は私を忘れずに居て下さった。」
声と共に梨英の椅子に走り寄り、彼の身に縋(すが)り付いた。
全く網守子は泣いている。
顔を梨英の身に埋めて離れない。
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