simanomusume42
島の娘 (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
サー・ウォルター・ビサント作 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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(四十二) 下へ下へと
実に網守子は島の娘である。虚飾の多い都の作法に慣れたとは言う者の、路田梨英に対しては、何の隔ても飾りも無い、五年前の様に帰った。
梨英は網守子を押し退けて、
「今の私は世を欺く詐欺漢です。貴女から此の様な同情を受ける直値(ねうち)が無い。」
網守子は又絵姿の前に行き、
「貴方は若し私が丁年に達する頃、此の絵の通りの顔に成らなかったら、梨英は画家と言われる資格が無いのだと仰有(おっしゃ)った。私は今少しで、満二十一歳の丁年に達しますが、貴方は本当の画家と言う者です。此の絵の顔は、彼(あ)の時には、私に似て無いと思ったけれど、今の私に生き写しです。貴方は生まれ付いた天才です。絵と私とを比べて御覧なさい。」
梨英は初めて網守子の姿を熟々(つくづく)見、非常に嬉しそうに立ち上がろうとしたが、又思い直したか腰を卸(おろ)した。
「貴女は何して此の様な立派な姿に成りました。貴女は五年前の島の娘網守子では無い。見た所、立派な金持ちのお嬢さんだ。今の私とは身分が違う。位置が違う。お帰りなさい。此の部屋へ来ては身が汚れる。お帰り成さい。今の私は天才では無い。地の底の土龍(もぐら)です。鼠の巣に棲む土龍です。」
網守子は又梨英の傍に来て、真に妹が兄に対する様に、梨英の肩に手を置き、
「ヤッと貴方を見出したからは、二度と貴方に分かれませんよ。貴方は五年前に分かれた時、再び島へ来るかと思えば、其れ切り今まで隠れて了(しま)って、もう私が隠れさせませんよ。貴方は彼(あ)の時、何と仰有った。大発展大発展と言ったでは有りませんか。私は貴方の言葉を守り、彼(あ)の時教えられた通りに勉めて居ますのに、貴方は何故勇気を出しません。」
梨英は矢張り自分を嘲(あざ)ける様な調子で、
「上にも限りが無く、下にも限りが無い。私は下へ下へと進みました。其れは隠しても、此の部屋で分かって居ます。大発展で無く大失敗です。」
貴方は独りで居るから其の様に気が沈みます。倶楽部も辞し、交際もしない様に成ったと、捨部竹里が言いました。元の通り交際なさい。今夜は必ず私の部屋へお出でなさい。私が彼(あ)の後、何れほど勉強したかを、見せて上げます。音楽も聞かせます。自分の書いた絵も、貴方に見せて、直して貰います。若し貴方が来て下さらなければ、私も失望して下へ下へ進みますわ。私は此の都に只(たっ)た一人で、貴方が来て呉れなければ心細い。来て下さいよ。」
此の打ち解けた言葉には、梨英も打ち解け無いことは出来ない。彼の顔は幾分に和らいだけれど、
「私の今の身は、交際など出来ません。幾等貴女に励まされても、もう上へ登ることの出来ない事情が有りますから。
帰って下さい。路田梨英を忘れて下さい。」
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