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島の娘 (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
サー・ウォルター・ビサント作 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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(四十三)此姿でーーー此姿で
「私は帰りませんよ。貴方が幾等帰れと云っても。」
と網守子は梨英の肩を揺すぶる様にした。
梨英は何の様な心持ちであろう。両手を組んで背を椅子に凭(もた)せ、顔は天井に向けて両目を閉じたまま、何事をも言わないのは、心の底に湧き起こる様々の感情を、自ら押し伏せようと勉めているのではないだろうか。頓(やが)てパッと眼(まなこ)を開き、
「アア此の身には、不運が附き纏(まと)って居るから駄目だ。何としても駄目だ。」
と独り言の様に言った。
網「其れ御覧なさい、貴方は、独り此の様な陰気な部屋に居ては、其の様な陰気な事ばかり考えて、其れで下へ下へと向くのですわ。今夜必ず私の部屋へお出でなさい。」
梨「其の様な事を言わないで帰って下さい。」
網「イイエ、貴方が行こうと約束してくださる迄は、何うあっても帰りません。」
梨「其の様に、聞き分けが無くては私が困ります。帰って下さい。」
網「貴方こそ聞き分けが無いのですわ。私は貴方に褒めて頂き度いばかりに、五年の間、随分色々の事を稽古しました。そうして漸く廻り合えば、帰れ帰れ、俺の事は忘れよと。
其の様な事は、私には出来ませんよ。貴方が行くと言わなければ、何時までもここに居ます。」
凍った様に冷たく結ばれて居る梨英の心も、此の真情には解けない訳には行かない。彼は深い嘆息と共に、
「アア仕方が無い。貴方には勝てない。」
網「では今夜来て下さるか。」
梨「行く外は有りません。」
網守子は嬉しそうに、自分の住家の所番地を記して与え、
「私は大層な大金持ちに成りましたよ。昔の網守子の様に、島の娘では無く、巴里や羅馬(ローマ)や、其の外広く大陸を廻って来ました。来て下されば沢山お話しが有りますよ。」
と言い、気も軽るそうに立ち去った。
けれど其の実、それほど気が軽くは無かった。梨英の零落の非常に甚だしいのを知って、心が沈むばかりであった。
後に梨英はやや久しく、身動きもせずに考へ込んで居たが、つと立って絵姿の前に行き、
「網守子、網守子」
と呼び、再び独り語を繰り返し、
「何して彼(あ)の様に変わっただろう。イヤ何しても変わる筈の女であった。あの儘(まま)あの島で朽ち果てることの出来る気質では無かった。けれど心は昔の通り親切で、少しも変って居ない。其れに引き替え此の梨英は、其の親切さえ受ける事の出来ない様な身の上とは成った。作品を売るばかりか、芸術其の者を売り、自分の名を売り、人格までも売って了(しま)った。
今夜行くと云った所で、此の姿でーーー、此の姿でーーーー。」
と自分の身姿(みなり)を見廻した。
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