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島の娘 (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
サー・ウォルター・ビサント作 黒岩涙香 訳 トシ 口語訳
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(五) 岩の上に立つ少女
両青年の宿って居るのは聖母島と云い、群島中の親島である。ここには島の政庁、裁判所、学校なども有り、一軒の宿屋の外に多少の商店もある。他の四島の住民は総てこの島を隣島と称する。ここを漕ぎ出して寒村(サムソン)島は直ぐに目の前に見えるけれど、三哩(マイル)(5.5km)以上離れて居る。丁度寒村島は此の島へ背を向けた様に成って、岬一つ廻らなければ上陸場が無い。
両人は見掛けよりも遠いのに驚き、
「昨夜我々は是ほど遠くまで流されたのかねえ。」
と竹里(ちくり)が云うと、ここから更に数哩(マイル)の沖合いへ流されたのさ。」
と梨英(りえい)が答えた。其の中に舟は岬を廻って寒村島の前面を斜めに望む位置に出たが、舟着きの上の方に昨夜の少女が岩の上に立って居る。
竹「見給え、網守子(あもりこ)とやらが約束の通り、我々の目印に立って居るよ。」
梨英は竹里よりも先に此の様に認めたが、彼は全く霊感に打たれた様に眺め入って、口も利かない。暫(しばら)くして、
「アア、神品?神品」
と呟(つぶや)き、深い息を洩らした。
竹「ナニ神品、君は彼の少女を其れほど美しく思うのか。----如何ほど美しいにもせよ、都に育った吾々が、田舎娘に見惚れてては物笑いだぜ。」
梨英は少し憤る様な語調で、
「捨部(すてべ)君、君の眼には、少女以外の何物も見え無いのか。此の島の山の色と云い、空には淡(うす)い雲が流れ、下の波と相映じて、其の中間に罪を知らぬ少女が吹く風に髪を晒して、岩の上に人を待って居る。この様な調和が人間の画(え)に在り得ようか。」
説明せられて竹里は初めて気が付いた様に、更に眼界を広くして見直した。時は今、五月の末で、島に峙(そばた)つ二個の小さい峰が濃い青葉に包まれ、如何にも空の色、水の様と調和し、画心(えごころ)の無い身にも、成るほどと合点せられる。
「イヤ恐れ入ったよ路田君、君は全く絵画の天才だ。唯だ天才のみが霊感に打たれると云うが、君は今霊感に打たれた、其れが天才の証拠だよ。僕は謹んで君の前途を祝福する。」
と云い、梨英の手を握り緊(し)めた。
けれど梨英はまだ半ば夢中の様で、幾度も深い息を吐き、空しく虚空を眺めて居ると見えたが、忽(たちま)ち我に復(かえ)った様に、非常に興奮した声で、
「捨部君、捨部君、他日僕が大画家と成ることが出来なかったならば、僕を取るに足ら無い劣等の人として、君の交友名簿から除名して呉れ給え、芸術家が此の様な天然の手本をーーー神品をーーー示される場合は生涯に一度あれば非常の仕合せと云う者だ。其れだのに平々凡々の作品しか出来無いならば、僕は芸術家と云う名誉ある職業を侮辱する者だ。」
と云い切り、其の後は再び深い思いに耽(ひた)る様に、口を結んで何事をも云わなかった。
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