巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

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島の娘    (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

サー・ウォルター・ビサント作   黒岩涙香 訳  トシ 口語訳

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     (五十一) 気の毒な程の反映

 入って来た路田梨英の姿は、部屋の美しさに照らされて、気の毒なほどの反映である。
 彼自ら此の様な事では無いかと思い、俄(にわ)か拵(こしら)えにも、幾分の身姿(みなり)を作って来る積りであったけれど、江南に待たされて、其の暇が無くなった。彼は幾度も途中から引き返えそうかと思ったけれど、燈火に引かれる夏虫であった。引き返すことが出来なかった。此の部屋に入ると共に、引き返えさなかった自分の愚かさを悔いた。

 彼は数年来、人の客間には入ったことが無い。彼の行く先で立派なのは、蛭田江南の画室だけである。けれど、自ら画工として、画室の立派さには驚かないが、此の部屋は画室で無い。贅沢に造作せられた客室である。一切の飾り附けが、余程美術趣味に富んだ人で無ければ、出来ないだろうと思う様に配合せられ、梨英の目には、殆ど理想的とも言うべき程に見える。

 実は、網守子自らの意匠に成ったのである。もう引き返すことも叶わない。歩み入ると同時に、梨英の手は網守子に握られた。それでも梨英は言った。
 「ここは私の来る所では有りません。私の居る所では有りません。此の姿で此の様な立派な部屋へ、網守子さん、貴女は意地悪です。路田梨英に恥ずかしい思いをさせるのが、貴女には面白いですか。」

 網守子も今更気の毒な思いが、無いでも無い。けれど直ぐに答えた。
 「貴方は男の身で、何を其の様に恥ずかしいと言うのです。貴方は何の様な宝にも代え難い天才の身で、此の部屋へ入ると入らぬとで、恥ずかしさが異(か)わりますか。」
 梨英は力無く、

 「アア、其れはそうだ。私の身は何処に居ても恥ずかしい。此の部屋へ入らなくても恥ずかしい。」
 網「イイエ、何処に出ようと、少しも恥ることは有りません。天才は人間の誇りだと、五年前に貴方が私へ教えて下さった。」
 梨「網守子さん、もう私は天才では有りません。自分の身が自分で無いのです。」

 網守子には、此の意味が良く分からない。けれど、傍で聞く柳本小笛嬢には、妙に深い感動を与えた。少なくとも小笛嬢は、此の言葉が身に浸み入る境遇に立って居る。
 網守子は先ず梨英と小笛を引き合わせた。そうして直ぐに自分の手文庫を持ち出した。手文庫の中には、種々の絵が入っている。網守子は成るべく梨英の気を紛らせ、身の零落などを、思い出させない様にする積りである。

 文庫の中から最初に取り出されたのは、梨英が五年前に書いた下絵である。網守子は快活な調子で
 「貴方は、此の絵を書いた時の心持にお成りなさい。」
 梨英は熟々(つくづ)くと之を見て、
 「アア路田梨英の絵と言うことの出来るのは、此の下絵ばかりだ。路田梨英の絵は、世の中に一枚も無い。一枚も無い。」
 彼の目には涙が滝の様に下った。


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